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本能寺の変1582 第47話 8光秀の苦悩 6守るべき者  天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第47話 8光秀の苦悩 6守るべき者 

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光秀は、坂本にいた。

 天正十年、三月三日。
 信忠が諏訪に進出した日。
 光秀は、坂本にいた。
 甲斐出陣の準備をすすめていた。

 光秀の軍勢について。
 吉田兼見は、「数千騎」と言っている(「兼見卿記」)。
 全勢力の半分にも満たない数である。
 中国大遠征の予行演習を兼ねたものと思う。
 

光秀は、嫡男光慶のことで悩んでいた。

 一、光秀の年齢。
 一、光秀の体力。
 一、光秀の嫡男光慶は、まだ13歳だった。

   【参照】4光秀の苦悩 1嫡男光慶  7

光秀は、平穏・安寧を望んでいた。

 光秀は、歴とした戦国武将である。
 だが、その一方で、文化人・風流人でもあった。
 和歌・連歌・茶の湯に造詣が深い。

 基本的には、平穏・安寧を志向する人物だったのではないか。 
 以下のことから、それが分かる。

 一、天正九年、天橋立遊覧。

   【参照】4光秀の苦悩 5分かれ道 16   17   18   

 一、天正十年、愛宕百韻。

    国々は、猶、長閑(のどか)なる時、    光慶
                          (「続群書類従」)
   【参照】4光秀の苦悩 1嫡男光慶  7

 一、「天王寺屋会記」(津田宗及)に度々登場する。

 なお、これらについては、後述する。 

光秀は、志向の違いに悩んでいた。

 しかし、・・・・・。
 戦いは、終わらず。
 信長は、「天下布武」=日本統一を成し遂げた後、中国大陸(明)へ進出
 しようとする野心を抱いていた。

 一、信長には、「さらなる夢」があった。

   【参照】4光秀の苦悩 2志向の相違 

 光秀は、信長の「天下布武」に、己の、人生の、残りの全てを賭けた。
 「天下静謐」、そのために命の限りを尽くし、奮闘して来た。
 信長の志向するところと、己のそれとが、見事に、一致した故である。
 そして、ようやく、先が見えて来た。
 そう思ったのも、束の間のこと。

 ・・・・・。
 これでは、いつまで経っても、戦いは終わらない。 

 光秀は、考えた。

 このままでは、死ぬまで、戦い続けなければならぬ。
 否、己の老い先は、そう長くはない。
 その前に、果てるであろう。
 ならば、死後。
 光慶に、その重荷・重責を、そっくりそのまま背負わせることになる。
 光慶は、若すぎる。
 まだまだ、未熟である。
 あの信長のこと。
 己同様、光慶を引き立てる保証など、何一つないではないか。
 佐久間信盛を見よ。
 最古参の重臣筆頭者とて、役に立たねば、捨てられる。
 ・・・・・。

   【参照】4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 10   11   12   13   
                     14   15       

 信長の「さらなる夢」は、光秀の志向するところではなかった。
 そう、思う。 

光秀は、信長との意思の疎通に問題が生じていた。

 光秀の妹妻木氏は、信長と光秀の間を取り持っていた。
 その役割は、大きい。
 彼女の存在があったからこそ、二人の間のコミュニケーションがうまく
 いっていた。
 ところが、天正九年八月。
 きわめて、難しい時期に。

 一、光秀は、妹妻木氏を亡くした。
 一、光秀は、信長とのパイプ役を失った。

   【参照】4光秀の苦悩 2志向の相違 

 光秀にとって、大きな痛手であった。

光秀は、明智の将来に大きな不安を抱いていた。

 これまでは、よかった。
 長年の苦労が報われ、織田家の重臣筆頭者に出世した。
 丹波を拝領、国持大名に上り詰めた。
 光秀は、見事、明智氏の再興を成し遂げた。
 ・・・・・。
 しかし、問題は、この先こと。
 甲斐征伐が終われば、次は、中国毛利。
 これに、「数年」。
 そして、その後。
 信長の「さらなる夢」。

 となれば、ここ数年のうちに・・・・・。
 否、それでは遅い。
 遅すぎる。
 急がねばならぬ・・・・・。


 ⇒ 次へつづく 第48話  8光秀の苦悩 6守るべき者  


 






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