本能寺の変1582 目次小 15信長の台頭 3桶狭間 第123~131話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
目次小 15信長の台頭 3桶狭間 第123~131話
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第123話
・永禄三年1560
三好長慶が上洛した。 「言継卿記」
将軍義輝との関係は、良好である。 「お湯殿の上の日記」
正親町天皇の即位礼が執り行われた。 「言継卿記」
長慶は、警固役を命じられた。 「言継卿記」
朝廷は、衰微していた。
三好長慶が幕府に出仕した。 「言継卿記」
長慶は、松永久秀を重用した。 「お湯殿の上の日記」
久秀は、なかなかの策士である。
第124話
将軍義輝が参内した。 「お湯殿の上の日記」
三好義興と松永久秀が、これに供奉した。 「言継卿記」
長慶が摂津芥川山城へ帰った。 「言継卿記」
三好長慶、得意の場面である。 「足利季世記」
長慶は、将軍義輝を必要としていた。
長慶は、家臣の統制が甘かった。
第125話
今川軍が尾張に進出した。 『信長公記』
信長は、五ヶ所に付城を築いた。 『信長公記』
眠れぬ夜がつづく。
今川義元が沓掛に到着した。 『信長公記』
信長、動かず。 『信長公記』
第126話
今川方の攻撃が始まった。 『信長公記』
信長、出陣。 『信長公記』
信長は、熱田へ向かった。 『信長公記』
信長は、善照寺砦に入った。 『信長公記』
義元は、桶狭間で休息をとった。 『信長公記』
徳川家康は、大高城へ兵粮を運び入れた。 『信長公記』
第127話
信長は、今川方から丸見えだった。 『信長公記』
今川義元は、油断した。 『信長公記』
信長は、中島砦に入った。 『信長公記』
この時、信長の軍勢は僅か二千。 『信長公記』
第128話
運は、天にあり。 『信長公記』
信長は、敵の前衛線の位置をつかんだ。
信長は、強運だった。 『信長公記』
その時、天気が急変した。 『信長公記』
信長は、天を味方につけた。 『信長公記』
信長は、義元の本陣へ近づいた。
第129話
やがて、雨が上がった。
信長は、攻撃を命じた。 『信長公記』
今川軍は、総崩れになった。 『信長公記』
信長は、義元を追い詰めた。 『信長公記』
義元は、近くにいる。 『信長公記』
今川義元の最期。 『信長公記』
第130話
信長は、斯波義銀を助けた。 『信長公記』
掃討戦は、凄惨をきわめた。 『信長公記』
義元の首。 『信長公記』
信長は、清洲に帰った。 『信長公記』
義元は、山口父子を誅殺した。 『信長公記』
これすなわち、因果応報。 『信長公記』
第131話
以後、今川氏は衰亡の道を辿る。 『信長公記』
義元は、二の江の坊主と連携していた。 『信長公記』
頸数三千余。 『信長公記』
信長は、義元の最期の様子を聞いた。 『信長公記』
信長は、義元の首を駿河へ届けた。 『信長公記』
信長は、義元塚を築いた。 『信長公記』
名刀、左文字。 『信長公記』
今川勢は、全軍撤退した。 『信長公記』
家康が岡崎城に入った。 『信長公記』
⇒ 次へつづく
目次小 15信長の台頭 4光秀と長宗我部元親 第132話
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