見出し画像

本能寺の変1582 第124話 15信長の台頭 3桶狭間 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第124話 15信長の台頭 3桶狭間 

はじめに ←目次 ←前回 第123話 

将軍義輝が参内した。

 同六日。
 この年、初めてである。

  義輝、参内して、歳首を奉る、
                          (「史料綜覧」)

  六日、雨ふる、
  ふけ、はしめてさんたい、
  五こん(献)まいる、
                      (「お湯殿の上の日記」)

三好義興と松永久秀が、これに供奉した。

 御供衆の中に、その姿が見える。
 大懸かりなものだった。 

  六日、壬寅(みずのえとら)、雨降る、天一天上、
  今日、武家御参内これ有り、
  (中略)
  御走衆、・・・・・・・・・・等なり、
  御供衆、細川右馬頭、・・・・・、三好筑前守(今日始めて)、・・・
  ・・、松永弾正少弼(今日始めて)、・・・・・・・・・・・・等なり、
                          (「言継卿記」)
  

長慶が摂津芥川山城へ帰った。

 同十日。
 義興・松永久秀とともに、帰城。

  十日、丙午(ひのえうま)、天晴、天一天上、
  三好修理大夫・同筑前守・松永弾正少弼等、
  今日、芥川へ下国しおわんぬ、

  明後日、和泉国へ陣立てと云々、
                          (「言継卿記」)

三好長慶、得意の場面である。

 己の権威を世に知らしめる。
 これが、今回の上洛の目的だった。 

  永禄三年正月十五日、細川氏綱、淀城に御座けるに、
  畠山殿・三好殿、御礼に参らる、

  同二月四日(六日の誤り)、公方義輝、御参内あり、

  三好長慶は、松永を召し連れ、去る月(一月)十六日、淀より上洛あり、
  今に、在京なり、

  今度(こたび)、御参内の御供に参り、
  修理大夫に任じ、子息孫二郎慶(義)興は筑前守に任じ、
  陪臣松永弾正忠を弾正少弼に任ぜられける、

  是れは、昔、武衛家(斯波氏)の、朝倉を召し加えらるゝ後に、
  御相伴衆に成されし例にまかせて、今度、御供衆に召し加えられける、
  誠に、希代の面目なり、

  (青は藍より取りて)藍よりも青く、
  (氷は水これを為して)水よりも寒(つめ)たし、

  三好は、細川の下より出で、細川に勝り、
  松永、又、三好家の下にありて、三好に威を益(ま=益)さりける、  

  同十日、各(おのおの)、芥川城えかへり下られける、
  かかる目出度き世の中に、
                         (「足利季世記」)

長慶は、将軍義輝を必要としていた。

 権威づけのために。
 どうしても、必要だった。

 後の、信長との決定的な違いである。

長慶は、家臣の統制が甘かった。

 この中で、松永久秀の台頭を仄(ほの)めかしている。
 「松永、又、三好家の下にありて、三好に威を益さりける」
 
 これもまた、信長と違うところである。



 ⇒ 次へつづく 第125話 15信長の台頭 3桶狭間 


この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?