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本能寺の変1582 第125話 15信長の台頭 3桶狭間 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第125話 15信長の台頭 3桶狭間 

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今川軍が尾張に進出した。

 今川義元は、すでに、鳴海・大高両城*に軍勢を入れていた。
 「虎視眈々」
 ここが、橋頭保。
 尾張進出の足懸りとなる。   

 義元は、父信秀以来の宿敵。
 信長の心の内には、怨念が渦巻いていた。
 
 前面に、今川。
 背後に、斎藤義龍。
 信長に、逃げ場はない。

 選択肢は、ただ一つ。
 これを、迎い撃つのみ。
 失敗は、すなわち、死。
 生き残るには、勝つしかなかった。

  御国(尾張)の内へ、義元引請けられ候ひし間、
  大事と、御胸中に籠(こも)り侯ひしと、聞こえ申し侯なり。

信長は、五ヶ所に付城を築いた。

 鳴海城に対して、三ヶ所。
 丹下砦・善照寺砦・中島砦*。

  一、鳴海の城、南は、黒末の川(天白川)とて、入海(いりうみ)、
    塩(潮)の差し引き、城下までこれあり。
    東へ、谷合ひ打ち続き、西、又深田なり。
    北より東へは、山つゞきなり。

    城より廿町隔て、たんげ(丹下)と云ふ古屋しきあり、
    これを御取出にかまへられ、
    水野帯刀・山口ゑびの丞・柘植玄蕃頭・真木与十郎・
    真木宗十郎・伴十左衛門尉。

    東に、善照寺とて古跡これあり。
    御要害に侯て、佐久間右衛門(信盛)・舎弟左京助をかせられ、

    南に、中島とて小村あり。
    御取出になされ、梶川平左衛門をかせられ、


 同じく、大高城に対して。
 こちらは、鳴海城の南西半里(2km)ほどにある。
 その間に、さらに二ヶ所。
 丸根砦と鷲津砦*。

  一、黒末入海の向ふに、なるみ(鳴海)、大だか(大高)、間を取り切り、
    御取出ニケ所仰せ付けらる。

  一、丸根山には、佐久間大学(盛重)をかせられ、

  一、鷲津山には、織田玄蕃(秀敏)・飯尾近江守父子入れをかせられ
    侯ひき。


    *鳴海城  愛知県名古屋市緑区鳴海町城
     大高城   〃   〃 緑区大高町城山
    *丹下砦   〃   〃 緑区鳴海町丹下
     善照寺砦  〃   〃 緑区鳴海町砦
     中島砦   〃   〃 緑区鳴海町下中
    *丸根砦   〃   〃 緑区大高町丸根
     鷲津砦   〃   〃 緑区大高町字鷲津

眠れぬ夜がつづく。

 信長は、追い込まれた。

 敵は、三ヶ国の太守。
 圧倒的な兵力差があった。

 なれど、勝手知ったる我が領地。
 義元は、そこに来る。

 信長の頭脳は、激しく回転した。
 絵図を睨む。
 策を練る。
 「勝つ」
 全知全能。
 眠れぬ夜がつづいた。

今川義元が沓掛に到着した。

 同十七日。
 義元は、確信していた。
 「勝利」
 その上での出陣だった。

 『信長公記』には、「天文廿一年」とある。
 だが、これは誤り。
 正しくは、「永禄三年年」である。

  天文廿一年、壬子(みずのえね)、五月十七日、
  一、今川義元、沓懸へ参陣、

信長、動かず。

 同十八日。
 丸根砦の佐久間大学から注進があった。

  十八日夜に入り、(義元は)大高の城へ兵粮入れ、
  助けをなき様に(織田の援軍が来ないうちに)、
  十九日朝、塩(潮)の満干を勘(考)がへ、
  取出を払ふ(攻撃)べきの旨必定と、相聞こえ侯ひし由、

  十八日夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより
  御注進申し上げ侯ところ、


 なれど、動かず。
 「義元は、沓掛にいる」 

 信長の肚は、すでに決まっていた。
 その間合いを見ていた。

  其の夜の御はなし、軍(いくさ)の行(てだて)は、
  努々(ゆめゆめ)、これなし。
  色々世間の御雑談までにて、
  既に、深更に及ぶの間、帰宅侯へと御暇下さる。

  家老の衆申す様、
  運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、
  各(おのおの)、嘲弄候て、罷り帰られ侯。
                          (『信長公記』)



 ⇒ 次へつづく 第126話 15信長の台頭 3桶狭間 



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