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本能寺の変1582 第126話 15信長の台頭 3桶狭間 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第126話 15信長の台頭 3桶狭間 

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今川方の攻撃が始まった。

 同十九日。
 未明。
 再び、注進。

  案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたより、
  早(はや)、鷲津山・丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。

信長、出陣。

 時、至れり。
 信長は、「敦盛」をひとさし舞う。
 そして、出陣。

  此の時、信長、敦盛の舞を遊ばし侯。

  人間五十年、
  下天の内をくらぶれば、
  夢幻の如くなり、
  一度生を得て、
  滅せぬ者のあるべきか、
  とて、

  螺(かい)ふけ、具足よこせ、
  と、仰せられ、

  御物具(もののぐ)めされ、たちながら御食を参り、
  御甲(かぶと)をめし侯て、
  御出陣なさる。

   【参照】2信長と「敦盛」 人間五十年  4

信長は、熱田へ向かった。

 この時、わずか主従六騎。

  その時の御伴には、
  御小姓衆、
  岩室長門守・長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨守・賀藤弥三郎、
  これ等主従六騎、

  あつた(熱田神社)まで三里(12km)、一時にかけさせられ、
  辰の剋(8時頃)に、
  源大夫殿宮(上知我麻神社かみちかまのやしろ)のまへ(前)より、
  東を御覧じ侯へば、
  鷲津・丸根、落去と覚しくて煙上り侯。
  此の時、馬上六騎、雑兵(ぞうひょう)弐百計りなり。

信長は、善照寺砦に入った。

 清洲→熱田→丹下→善照寺。
 ここで、軍勢の到着を待った。

  浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、
  塩満ちさし入り、御馬の通ひこれなく、
  熱田よりかみ(上)道を、もみにもんで懸けさせられ、

  先づ、たんげの御取出へ御出で侯て、

  夫(それ)より善照寺、佐久間(信盛)居陣の取出へ御出でありて、
  御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、

義元は、桶狭間で休息をとった。

 同日(五月十九日)。
 義元は、沓掛城を出発した。
 自信満々。
 大軍勢である。
 桶狭間山に陣取った(愛知県名古屋市緑区桶狭間北3丁目付近一帯)。

  御敵今川義元は、四万五千を引率し、
  おけはざま山に人馬の息を休めこれあり。

 「四万五千」とあるが、これでは多すぎよう。
 義元の領地は、駿河・遠江・三河の三ヶ国。
 これらの石高(=国力)から推し量れば、もっと、少なかったものと思う。

  【参照】15信長の台頭 2尾張統一 122   

 同日、午の剋(12時頃)。
 義元は、北西へ向けて兵を配置していた。

  天文廿一(永禄三年の誤り)、壬子、五月十九日、午の剋(こく)、
  戌亥(いぬい)に向けて人数を備へ、
  鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからずの由候て、
  謡(うたい)を三番うたはせられたる由に侯。

徳川家康は、大高城へ兵粮を運び入れた。

 家康、この時、十九歳。
 大高城に入って、休息していた。

  今度、家康は朱武者(しゅむしゃ)にて、
  先懸(さきがけ)をさせられ、
  大高へ兵粮入れ、
  鷲津・丸根にて手を砕き、
  御辛労なされたるに依つて、
  人馬の息を休め、大高に居陣なり。
                          (『信長公記』)


 ⇒ 次へつづく 第127話 15信長の台頭 3桶狭間 


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