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本能寺の変1582 第128話 15信長の台頭 3桶狭間 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第128話 15信長の台頭 3桶狭間 

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運は、天にあり。

 信長は、中島砦から出撃しようとした。
 しかし、家老たちがそれを止めようとした。 

  中島より、又御人数出だされ侯。
  今度は、無理にすがり付き、止め申され侯へども、

  爰(ここ)にての御諚には、

 信長は、彼らに言った。

  各(おのおの)、よく々々承り侯へ。

  あの武者、宵(よい)に兵粮つかひて、夜もすがら来たり。
  大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、
  辛労して、つかれたる武者なり。

  こなたは、新手なり。
  
  其の上(かみ)、
  小軍にして、大敵を怖るゝことなかれ。
  運は、天にあり。
  此の語は、知らざるや。

  懸らばひけ、しりぞかば引き付くべし。
  是非に於いて、稠(ね)り倒し、追い崩すべき事、案の内なり。

  分捕(ぶんど)りなすべからず。
  打拾てになすべし。

  軍(いくさ)に勝ちぬれば、
  此の場へ乗りたる(参加した)者は、家の面目、末代の高名たるべし。
  只、励むべし。

  と、御諚のところに、

 そこに、前田利家らが頸を持って現れた。

  前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・木下雅楽助(うたのすけ)・
  中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人、
  右の衆、手々に頸を取り、持ち参られ侯。
  右の趣、一々、仰せ聞かせられ、

信長は、敵の前衛線の位置をつかんだ。

 となれば、・・・・・。
 如何にして、そこを突破すべきか。
 信長は、空を見上げた。

信長は、強運だった。

 信長は、中島砦を出た。
 進軍方向に注目。
 「山際」、とある。
 地形図を参照されたい。

  山際まで、御人数寄せられ侯ところ、

その時、天気が急変した。

 丁度、梅雨どきである。
 次第に空が暗くなり、雨が降り始めた。
 そして、アッという間に土砂降りになった、
 さらに、西からの強風が吹きあれた。

 今川勢にとっては、向かい風。
 雹(ひょう)混じりの豪雨である。
 目を開けることができない。

  俄に、急雨(むらさめ)、
  石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。


 逆に、織田勢にとっては、追い風になった。

  身方は、後の方に降りかゝる。

信長は、天を味方につけた。

 信長は、前方を睨みつけた。
 「天祐」
 そう、思っただろう。
 天地に、雷鳴がとどろきわたった。  

  沓掛の到下(峠)の松の本に、二かい(抱え)三かゐ(抱え)の楠の木、
  雨に、東へ降り倒るゝ。
  余りの事に、熱田大明神の神軍(かみいくさ)かと申し侯なり。
                          (『信長公記』)

 織田勢は、その中に、忽然と姿を消した。

信長は、義元の本陣へ近づいた。

 その間、おそらく、20~30分。
 となれば、2~3kmは進軍できよう。
 信長は、周辺の地形を知悉していた。
 予め、この辺りを決戦場に想定していたものと思う。

 まるで、誘導されたが如く。
 義元は、その地に陣を張った。
 上機嫌である。
 祝杯に酔いしれていた。

 信長は、間近まで、忍び寄った。
 今川勢は、まだ、気づいていない。


 ⇒ 次へつづく 第129話 15信長の台頭 3桶狭間 


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