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本能寺の変1582 第129話 15信長の台頭 3桶狭間 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第129話 15信長の台頭 3桶狭間 

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やがて、雨が上がった。

 その時、敵は眼前にいた。

信長は、攻撃を命じた。

 「懸かれ!」
 大音声である。 

  空晴るゝを御覧じ、
  信長、鎗をおつ取つて、大音声を上げて、
  すは、かゝれ、々々々、と仰せられ、

 大喊声とともに。
 全軍、突撃。

  黒煙(くろけむり)立て、懸かるを見て、

 今川方は、義元本陣の、北西側に、広範囲にわたって軍勢を展開して
 いた。
 となれば、当然、布陣は、薄く、細長くなる。 

今川軍は、総崩れになった。

 気がついたら、目の前に敵がいる。
 これでは、さしもの今川勢も、なす術(すべ)がない。
 アッという間に、崩壊した。
 義元は、輿(こし)を捨て、逃げた。

  (今川方は)水をまく(撒)るが如く、後ろへ、くはつと崩れたり。
  弓・鑓(鎗)・鉄炮・のぼり・さし物等、算を乱すに異ならず。
  今川義元の塗輿(ぬりこし)も捨て、くづれ迯(逃)れけり。
                          (『信長公記』)

 信長は、今川方に、体制を立て直す間を与えなかった。
 織田軍は、わき腹を衝くかの如く、西から東に向かって突撃した。
 まるで、錐(きり)を突き刺すように。
 強く、激しく、深々と。
 正に、一点集中、中央突破。
 天候急変による豪雨を利用した、「急襲」である。

信長は、義元を追い詰めた。

 午後2時頃。
 義元の旗本を発見。
 信長は、「東」へ向かって追撃した。

  天文廿一年(永禄三年の誤り)、壬子(みずのえね)、五月十九日、
  旗本は、是れなり。
  是れへ懸かれ、と御下知あり。
  未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。


 義元の旗本は、次第、次第に、その数を減らしていく。

  初めは、三百騎計り、真丸になつて、義元を囲み退きけるが、
  二・三度、四・五度、帰し合せ、々々々々、
  次第、々々に、無人になりて、
  後には、五十騎計りになりたるなり。

義元は、近くにいる。

 そう、思ったのだろう。
 信長は、馬から下りた。  
 両軍、入り乱れての混戦がつづく。

  信長、下り立つて、若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、
  いらつたる(=血気にはやる)若ものども、乱れかゝつて、
  しのぎをけづり、鍔(つば)をわり、火花をちらし、火焔をふらす。

  然りと雖も、
  敵身方の武者、色は相まぎれず(旗指物などの色で識別できた)。
  爰にて、御馬廻・御小姓衆、歴々、手負ひ死人員(かず)知れず。

今川義元の最期。

 そして、ついに、その時が訪れた。 
 服部小平太・毛利新介、両名の大手柄である。
 義元を発見。
 見事、これを討取った。

  服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。
  毛利新介、義元を伐り臥せ、頸(首)をとる。
                         (『信長公記』)



 ⇒ 次へつづく 第130話 15信長の台頭 3桶狭間 



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