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本能寺の変1582 第130話 15信長の台頭 3桶狭間 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第130話 15信長の台頭 3桶狭間 

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信長は、斯波義銀を助けた。

 これについて、人々の風聞である。

 清洲城、斯波義統殺害事件。
 信長は、その子義銀を手厚く保護した。
 この事件を、桶狭間の勝利に関連づけている。

  是れ偏に、先年清洲の城に於いて、武衛様を、悉く、攻め殺し侯の時、
  御舎弟を一人、生捕り、助け申され侯。

  其の、冥加、忽(たちま)ち来たりて、義元の頸をとり給ふと、
  人々、風聞候なり。
 

   【参照】13上総介信長 2富田聖徳寺 98   99   

掃討戦は、凄惨をきわめた。

 昇龍の如し。
 信長は、強運だった。
 「天」を味方につけた。

 義元は、信長を甘く見た。
 己の力を過信し、「油断」、したのである。

  運の尽きたる験(しるし)にや、
  おけはざまと云ふ所は、はざまくみて(狭間が入りくんで)、
  深田足入れ(足をとられ)、高みひきみ(高所低所に草木が)茂り、
  節所と云ふ事、限りなし。

  深田へ迯(逃)げ入る者は、
  所をさらず(脱出できず)、はい(這い)づりまはるを、
  若者ども、追ひ付き、々々々々、
  二つ三つ宛(ずつ)、手々(てんで)に頸をとり持ち、
  御前へ参り侯。

義元の首。

 父信秀以来の思い。
 信長は、満足した。

  頸(首)は、何れも、清洲にて、御実検と、仰せ出だされ、
  よしもとの頸を御覧じ、御満足、斜ならず。

信長は、清洲に帰った。

 凱旋(がいせん)である。

  もと御出で候道を、御帰陣侯なり。

義元は、山口父子を誅殺した。

 山口父子は、信長を裏切った。

  一、山口左馬助・同九郎二郎父子に、
    信長公の御父、織田備後守(信秀)、累年、御目を懸けられ、
    鳴海に在城。
    不慮に、御遷化(せんげ)侯へば、程なく御厚恩を忘れ、
    信長公へ敵対を含み、


 そして、今川義元へ寝返った。

    今川義元へ忠節をなし、居城鳴海へ引き入れ、智多郡御手に属し、

    其の上、愛智郡へ推し入り、笠寺*と云ふ所に要害を構へ、
    岡部五郎兵衛・かつら山・浅井小四郎・飯尾豊前・三浦左馬助、
    在城。

    鳴海には、子息九郎二郎を入れ置き、
    笠寺の並び中村の郷、取出を構へ、山口左馬助、居陣なり。

    此の如く、重々(かさねがさね)、忠節申すのところに、

     *笠寺 愛知県名古屋市南区笠寺町

  【参照】13上総介信長 1信秀の死 92   

 ところが、その義元に殺された。

    駿河へ、左馬助・九郎二郎両人召し寄せられ、
    御褒美は、聊(いささ)かもこれなく、
    情なく、無下々々と、生害させられ侯。

  【参照】13上総介信長 6道三の最期 104   

これすなわち、因果応報。

 その義元の最期が斯くの如し。
 ・・・・・、である。

    世は、澆季(ぎょうき=乱世)に及ぶと雖(いえども)も、
    日月、未だ地に堕ちず。

    今川義元、山口左馬助が在所へきたり、
    鳴海にて、四万五千の大軍を靡(なび)かし、それも御用にたたず。

    千が一の信長、纔(わず)か二千に及ぶ人数に、
    扣(たた)き立てられ、
    迯(逃)れ死に、相果てられ、


    浅猿敷(あさましき)仕合せ、因果歴然、善悪ニツの道理、
    天道、恐敷(おそろしく)侯ひしなり。
                          (『信長公記』)



 ⇒ 次へつづく 第131話 15信長の台頭 3桶狭間 


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