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本能寺の変1582 第98話 13上総介信長 2富田聖徳寺 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第98話 13上総介信長 2富田聖徳寺 

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清洲城は、斯波氏の守護所である。

 それと同時に、尾張下四郡の守護代、織田信友(彦五郎)の居城でも
 あった。

信長は、斯波義統を懐柔しようとしていた。

 同年、初夏。
 おそらく、この頃のことだろう。
 義統は、清洲城にいた。

義統の家臣が、信長に通じた。

 簗田弥次右衛門である。

  一、さる程に、武衛様の臣下に簗田弥次右衛門とて、
    一僕(=身分が低い)の人あり。
    面白き巧みにて、知行過分に取り、大名になられ侯。

    子細は、清洲に那古野弥五郎とて、
    十六、七、若年の、人数、三百計り持ちたる人あり。
    (弥次右衛門は)色々、(弥五郎に)歎き候て、
    若衆かたの知音(男色関係)を仕り、
    清洲を引きわり、上総介殿の御身方候て、
    御知行御取り侯へと、時々、宥(なだ)め申し、

    (武衛様の)家老の者どもにも、申しきかせ、
    欲に耽り、尤と、各(おのおの)同じ事に侯。


    然る間、弥次右衛門、上総介殿へ参り、
    御忠節仕るべきの趣、内々申し上ぐるに付いて、
    御満足斜ならず。

信長は、清洲城を攻め倦ねていた。

 城下に攻め入るも、撤退を余儀なくされた。

  或る時、上総介殿御人数、清洲へ引き入れ、
  町を焼き払ひ、生城(はだかじろ)に仕り侯。
  信長も、御馬を寄せられ侯へども、

  城中堅固に侯間、
  御人数打ち納れられ、

そうしている間に、義統の謀が漏れた。

 清洲織田氏は、警戒を厳重にした。

  武衛様も城中に御座候間、透(すき)を御覧じ、
  乗つ取らるべき御巧みの由、申すに付いて、

  清洲の城、外輪(そとわ)より城中を大事と用心、

 信長にとっては、逆風に他ならない。

  (信長は)迷惑せられ侯。

清洲織田氏の実権は、小守護代坂井大膳の手に移っていた。

 同七月十二日。
 大膳が先手を打った。

大膳は、嫡男義銀が川狩りに出かけた隙を狙った。

 坂井大膳にとって、守護は、最早、「無用の長物」にすぎなかった。
 これが戦国時代である。
 
  一、七月十二日、若武衛様(斯波義銀)に御伴申し究竟の若侍、
    悉(ことごと)く、川狩に罷り出でられ、
    内には、老者の仁体(じんてい)纔(わずか)に少々相残る。

    誰々これ在りと、指折り見申し、
    坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位、談合を究め、
    今こそ能き折節なりと、どッと四方より押し寄せ、
    御殿を取り巻く。

    面(おもて)広間の口にて、何あみと申す御同朋(どうぼう)、
    是れは謡を能く仕り侯仁(じん)にて侯。
    切つて出で、働く事、比類なし。

    又、はざまの森刑部丞兄弟、切つてまはり、
    余多(あまた)に手を負はせ討死。
    頸は、柴田角内、ニッとるなり。

    うらの口にては、柘植宗花と申す仁、切つて出で切つて出で、
    比類なき働きなり。

大膳は、斯波義統を殺害した(下剋上)。

 これもまた、下剋上。
 名門守護の最期である。

    四方屋の上より、弓の衆、さし取り引きつめ、散々に射立てられ、
    相叶はず、御殿に火を懸け、御一門数十人歴々御腹めされ、
    御上﨟衆は堀へ飛び入り、渡り越し、たすかる人もあり、
    水におぼれ死ぬるもあり。
    哀れなる有様なり。
                           (『信長公記』)


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