本能寺の変1582 第99話 13上総介信長 2富田聖徳寺 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第99話 13上総介信長 2富田聖徳寺
斯波義銀は、信長を頼った。
信長は、これを快く迎え入れた。
若武衛様は川狩より、直ちにゆかたびら(湯帷)のしたて(仕立)にて、
信長を御憑(たの)み侯て、那古野へ御出で、
すなわち、弐百人扶持仰せ付けられ、天王坊に置き申され候。
信長は、大義名分を得た。
錦の御旗が、転がり込んで来た。
信長は、類い稀なる策謀家だった。
信長の手が、裏で動いていた。
主従と申しながら、(斯波義統は)筋目なき御謀叛おぼしめしたち、
仏天の加護なく、ケ様に浅猿敷(あさましく)、無下々々と御果て侯。
若公(わかぎみ)一人、毛利十郎、生捕に仕り侯て、
那古野へ送り、進上候ひしなり。
御自滅と申しながら、天道恐ろしき次第なり。
信長は、義銀を手厚く保護した。
遠からず、その日は来る。
城中にて、
日夜、武衛様へ用心・機遣ひ(きづかい=気づかい)仕り、
粉骨の族(やから)どもも、
一旦、憤(いきどおり)を散ずるといへども、
我も人も、小屋々々やかれ候て、
兵粮・着の褻(ふだんぎ)等に、事を闕(か)く、難儀の仕合にて候なり。
(『信長公記』)
信長は、清洲を攻めた。
同七月十八日。
即座に反応。
攻撃を命じた。
織田軍あげての出陣だった。
中市場の合戦。
先手は、柴田勝家。
足軽衆の中には、太田牛一の姿もあった。
勝家の軍勢は、山王口から北北西に向かって激しく攻め立てた。
一、七月十八日、柴田権六、清洲へ出勢。
あしがる衆、我孫子右京亮・藤江九蔵・太田又助(牛一)・
木村源五・芝崎孫三・山田七郎五郎、此れ等として、
三王口にて取合ひ、追ひ入れられ、
(清洲勢は)乞食村にて、相支ふること叶はず。
誓願寺前にて、答へ(=応戦)候へども、
終に、町口大堀の内へ追ひ入れらる。
*三王口 日吉神社 愛知県清須市清洲2272
*中市場 不明
*乞食村 不明
*誓願寺 不明
*大堀 清州東小学校付近 愛知県清須市清洲2576
信長の勝利である。
長槍隊が、清州勢を圧倒。
多くの重臣たちが討死した。
(清洲の)河尻左馬丞・織田三位・原殿・雑賀殿、切つてかゝり、
二、三間扣(たた)き立て侯へども、
敵(=信長勢)の鑓は長く、こなたの鑓はみじかく、
つき立てられ、
然りと雖も、一足去らずに討死の衆、
河尻左馬丞・織田三位・雑賀修理・原殿・八板・高北・
古沢七郎左衛門・浅野久蔵、歴々三十騎計り討死。
武衛様の内、由宇(ゆう)喜一、未だ若年十七、八、
明衣(ゆかたびら)のしたて(仕立)にて、
みだれ入り、織田三位殿頸(くび)を取る。
天道、恐ろしき事どもなり。
太田牛一は、このように考えてた。
これが、当時の人々の一般的な捉え方だった。
武衛様、逆心おぼしめし立つると雖も、
譜代相伝の主君を殺し奉る其の因果、忽(たちま)ち歴然にて、
七日目と申すに、各討死。
天道、恐ろしき事どもなり。
(『信長公記』)
年月 名称 結果 備考
1522 天文21年4月 赤塚の合戦 △ 山口教継
〃 〃 8月 萱津の合戦 〇 清洲織田氏
1523 天文22年7月 中市場の合戦 〇 〃
信長は、立派な戦国武将に成長していた。
繰り返す。
信長は、この時、二十歳になったばかり。
時代環境が、一人の人間を、斯くも、逞しく、育て上げるのである。
戦国時代は、過酷だった。
そのことが、信長のような人物をつくったと言える。
光秀も、同時代の戦国武将である。
尾張と美濃。
なるほど、生国に、違いはある。
しかし、ともに同じ時代を生きた。
生年は、信長より10年ほど早いように思う。
【参照】11光秀の年齢 5結論 77
戦国時代の風潮が、光秀という男をつくった。
すなわち、戦国時代の風潮が、より色濃かった時期。
しかも、美濃。
過酷さにおいては、尾張以上だっただろう。
光秀は、その様な美濃の、争乱と下剋上の中で、生れ、育った。
戦国時代の過酷な生活環境が、光秀という男をつくったと言えるのでは
ないか。
【参照】11光秀の年齢 6人間形成 78
光秀は、この様な時代に生まれた。
光秀の人格・人間性は、争乱と下剋上の中で形成された。
【参照】第97話 13上総介信長 2富田聖徳寺
日本中に、下剋上が蔓延していた。
⇒ 次へつづく 第100話 13上総介信長 3三好長慶の下剋上
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