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本能寺の変1582 第49話 8光秀の苦悩 6守るべき者 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第49話 8光秀の苦悩 6守るべき者 

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天正九年1581が分かれ道だった。

 一、光秀は、平穏・安寧を志向していた。
 一、信長は、天下統一から、「さらなる夢」へ。
 一、志向の相違。
 一、二人の距離は、少しづつ、離れていく。 

   【参照】4光秀の苦悩 5分かれ道 16   17   18  

光秀は、信長の性格・気性を知悉していた。

 信長は、猜疑心が強く、執念深く、逆らう者を容赦しない。
 粛清は、ある日、突然、やって来る。
 不意を衝くに巧みな、恐ろしい男だった。 

 一、信長は、苛烈だった。
 一、信長は、女房衆を誅殺した。

   【参照】4光秀の苦悩 5分かれ道 16   17   18  

光秀は、節度の人である。

 光秀は、戦国武将であり、風雅の道に通じていた。
 文武両道の人だった。

光秀には、守らねばならぬ者たちがいた。

 天正八年、光秀は、見事に、明智氏を復興させた。
 同九年~十年、光秀は、戦場に出ていない。
 すなわち、明智氏は、平和な時代を迎えていた。 
 
 光秀は、家族を愛した。

 一、嫡男、光慶。
 一、三人の娘たち。
   細川忠興は、娘婿。
   織田信澄、同。
   明智秀満、同。
 一、これ以外にも、複数の子どもたちがいたようである。

 そして、一族・縁者・家臣たち。
 彼らの中から、裏切り者は、一人も出ていない。

 なお、これらについては、後述する。

光秀は、子らの将来を案じていた。

我等不慮の儀存じ立て候事。

 以下は、本能寺の変(六月二日)の七日後、光秀が細川藤孝へ送った
 書状である。
 この中に、光慶と忠興のことが書かれてある。
 光秀は、光慶への跡目相続を考えていた。
 また、五十~百日もすれば、混乱は落ち着くだろうと言っている。
 山崎の戦いは、この日から四日後(六月十三日)である。 

  一、我等、不慮の儀、存じ立て候事、
    忠興など、取り立て申すべきとての儀に候。
    さらに、別条なきに候。
    五十日・百日の内には、近国の儀、相堅めるべき候間、
    それ以後は、
    十五郎(光慶)、与一郎(忠興)殿など引き渡し申し候て、
    何事も存ずまじき候。
            (天正十年六月九日付「細川家文書」一部抜粋)

光秀は、最良の状態で光慶に引き継いでやりたかった。

 親心である。
 明智氏は、絶頂期にあった。
 そう、言えるだろう。
 これが末永く続くことを願っていた。
 当然である。

 だが、しかし、・・・・・。
 そこには、大きな壁があった。


 ⇒ 次へつづく 第50話 8光秀の苦悩 6守るべき者  
 



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