【小説】白い世界を見おろす深海魚 78章 (向こう側にある徒労)
【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業『キャスト・レオ』から広報誌を作成する依頼を高額で受けるが、塩崎は日々の激務が祟り心体の不調で退職を余儀なくされる。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田はどちらも理不尽と欲望に満ちた社会に棲む自分勝手な人間で構成されていることに気づき始めていた。本当に純粋な心を社会に向かって表現できるアーティストのミユは、彼らの利己主義によって黙殺されてようとしている。
傍若無人の人々に囲まれ、自分の立ち位置を模索している安田。キャスト・レオの会員となっていた塩崎に失望感を抱いきつつ、彼らの悪事を探るため田中という偽名を使い、勧誘を目的としたセミナー会場へ侵入するが、不審に思ったメンバーによって、これ以上の詮索を止めるよう脅しを受ける。だが、恐怖よりも嫌悪感が勝っていた。安田は業務の傍ら悪事を公表するため、記事を作成し山吹出版に原稿を持ち込み、出版にこぎつける。大業を成し遂げた気分になっていた安田に塩崎から帰郷するという連絡がくる。
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78
『アリシア 新年号』が発行されてから、キャスト・レオに行くことへの緊張感がさらに強くなった。でも、青田さんは普段と変わらない様子だった。
打ち合わせの帰りに、近くの和菓子屋で買ったどら焼きをぶらさげて、山吹出版へ立ち寄ってみた。無愛想な女性社員にオフィス内へ案内される。
次号の取材に出ているのだろうか。ほとんどの記者達がデスクを離れていて、オフィスは閑散としていた。そんな中、田岡さんは編集長のデスクでノートパソコンを覗き込んでいた。
「あの……」
ぼくは田岡さんの前に立ち、声をかけた。彼はしばらくデスクトップを見つめて考え込んでいる様子だったが、やがて目を離した。
「あっ、どうも」
彼は頭を下げた後、以前より少し長く伸びた白髪まじりの頭をゴシゴシと掻いた。
「ええと、たしか安田さんでしたよね? この間の原稿はどうも」
眼鏡を外してまぶたの上をマッサージしはじめた。
「こちらこそ、ありがとうございます」と言葉を返す前に、田岡さんは机の上の書類の束を持って「これ○○に渡しておいて」と叫んだ。先ほどの女性社員が駆け足で田岡さんからの書類を受け取る。ぼくと目が合うと表情を変えずに口を半開きにしたまま、軽くおじぎをした。
「……で、なにか? またいいネタでも見つけてきましたか?」
田岡さんは、おざなりのような質問をしてきた。
「あ、いえ。前回の原稿の校正のお礼に伺いました」と、どら焼きの入った紙袋を渡す。
「あっ、どうもご親切に」
紙袋を受け取った後、少し間を置いて毛むくじゃらの腕に巻かれた時計を見た。「呑むには、ちょっと早いなぁ」と呟く。
「どうです。近くの喫茶店でコーヒーでも飲みませんか?」
彼は、紙袋の中に顔を向けたまま上目づかいにぼくを見る。社交辞令の笑顔はない。先ほどの女性といい、接客態度にあまり関心のない会社のようだ。まぁ、こういう出版社だから当然か。
「あっ、じゃあお言葉に甘えて……」
彼が笑わない分、ぼくが笑って応えた。
田岡さんの鼻歌を聴きながら、山吹出版のオフィスが入っているビルの迎えにある喫茶店に入った。店内には熱帯魚が悠然と泳いでいる水槽と、水タバコを吸うためのパイプがオブジェとして置かれていた。木目調のテーブル、壁は黒ずんでいて年期を感じさせる。
ぼくと田岡さんはカウンター席に座って、ブルーマウンテンを頼んだ。サイフォンから吐き出されるコーヒーの匂いが店内に広がる。
「たしか、商業雑誌に原稿を載せるのは初めてでしたよね?」
田岡さんは上着からセブンスターを取り出して口にくわえた。空き箱をカウンターテーブルの上に放る。
「ハイ、とてもいい経験をさせていただきました。ありがとうございます」
そう言うと、彼は短く笑った。口から一気に真っ白な煙が吹き出る。
「いい経験ねぇ……」
マスターらしき年老いた人がカウンターに二つ、できあがったコーヒーを置いた。
「安田さんは記者を志望しているんだよね?」
うなずいてはみたが、少しためらいがあった。
あのとき、ぼくはキャスト・レオに対して感情的になっていた。弱者を食い物にして、肥大していくビジネスへの恨みが胸のなかでざわついていた。批判的な記事をつくることで、それが収まると思っていた。誰かが読み、ある程度共感してくれる人がいれば自分のなかで何かが変わり、この怒りを静めることができるものだと。
でも、結局はなにも変わらなかった。
記事もごく少数の人にしか読まれないし、記憶に残るようなものでもない。塩崎さんのような人が報われるわけでもない。雑誌は資源ゴミとなり、誰かが誰かに搾取される社会は機能し続ける。変わったことといえば、ぼくの“怒り”のベクトルが煙を吐きながら垂れ下がるタバコの灰のような“むなしさ”となってしまったことだ。
「わたしらのような仕事はつらいですよ」
ぼくは田岡さんを見た。ヤニで黄ばんだ歯を見せてニヤつく。
「いやぁ、安田さんが、なんで記者になりたいかは分からないですけどね。締め切り間際は家に帰れないし、休日もない。それでいて安月給ときている。しかも、色んなところから叩かれますからねぇ……」
そういって、顔を近づけて小声で話を進める。
「情報元からは訴えられることもあるし、読者からのクレームも尽きない。ほとんどの情報は大手の出版社が集握しているから、私たちのような中小の出版社はニッチな情報を捜して、走り回るしかないんです。本当に報われない仕事ですよ。好きじゃなければ、やってられない。おまけに、この出版不況……もうウチの会社も長くはないでしょう」と疲労の滲んだ笑みを浮かべた。
「田岡さんは、この仕事は好きなんですか?」
彼はコーヒーを一口啜って「さぁ、どうだろう?」と首を傾げた。
「前にも言ったと思うけど、憧れていた仕事だったんだけどね。この歳になると、もう好きとか嫌いとか言っていられませんよ」
セブンスターを灰皿に押しつぶす。
お互い時間がないため、コーヒーを一杯飲んで別れた。田岡さんは「また原稿を書いてくださるのなら、いつでも拝見しますよ。その代わり、もう以前のように何度も校正はしないけど」と、ぼくの背中を軽く叩く。来たばかりのときとは違って、親しげな素振り。ぼくもいつの間にか社交辞令ではなく自然に笑っていた。
田岡さんがビルに入って行く姿を見送ってから、ぼくは駅に向かって歩き出した。
揺れる電車の中。今日やるべき仕事を一つずつ思い浮かべながら、温かいシートで少しだけ居眠りをした。
つづく
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