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【小説】白い世界を見おろす深海魚 55章 (乾いたクリームパンとラットレース)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を高額で受けるが、塩崎は日々の激務が祟り心体の不調で退職を余儀なくされる。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田はどちらも理不尽と欲望に満ちた社会に棲む自分勝手な人間で構成されていることに気づき始めていた。本当に純粋な心を社会に向かって表現できるアーティストのミユは、彼らの利己主義によって黙殺されてようとしている。傍若無人の人々に囲まれ、自分の立ち位置を模索していている安田にクライアント先であった企業のマルチビジネスの会員となっていた塩崎から色仕掛けのような勧誘を受け、人間不信となる。

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55


 暑い。
 つかみどころのない夢で目が覚めた。昔の友人が出てきて、ぼくに向かってなにか言っているのだが上手く聞き取れないでいた。何度も、何度も聞き返すのだが、相手は耳の表面をなでる程度のか細い声を発するだけ。友人は手の平を軽く上げて諦める素振りした後、背中を向けて離れていく。遠い過去に現実で起こった夢だった。

 目が覚めたとき、スウェットが汗で濡れて重くなっていた。急いで脱いで洗濯籠に投げつける。すでに出社時間が過ぎていたため息をつく。今日ぐらい休もう。企画書の作成と、アポを取った会社にキャンセルを告げなければならないことが気になったが、これ以上、体調を悪化させたくない。

 再び布団の上に寝転がり、携帯電話で欠勤を告げた。対応した後輩社員は、無機質に「ハイ…ハイ、伝えておきます」と短く相槌を打って、早々に電話を切った。

 寝転がりながら、上司から文句の電話が来るのではないかと不安になっていた。師走の忙しい時期に休むなんて、社会人失格だ。本来は、風邪だろうと骨折だろうと、這いつくばって出社しなければならない。

 テーブルの上には食べかけのクリームパンがあった。それを齧りながら、塩崎さんのことを思い出す。なんのやる気もなくしちゃったの……と涙を流しながら呟く彼女を思い出し、胸の奥を無遠慮な力でつかまれたような痛みを感じた。

「バカバカしい……」
 痛みを振り払うために、天井を見つめて呟いた。

 塩崎さんも青田さんも、斎藤さんも……川田部長も上山も、金田さんも。みんなバカバカしい。ひたすら走り続けて、ただ、自分が生き残りたいがために誰かをエサにすることしか考えていないように見える。そんな行為に、なんの意味があるのだろう。そんなに自分が大事か? それほど自分が価値のある存在だと思っていたいのか?

 次に、ミユの顔が浮かんできた。ユウタやル・プランのメンバーの顔が次々と浮かぶ。最後は、金田さんによって、あんな終わり方になったが仲間という意識を持ちながら夢に向かっていけた彼らが羨ましかった。頭の中は熱で解けたチョコレートのようになっていた。ベタつく、甘ったるいチョコレート。全てが気怠い。朝日で照らされた白い天井は、色々な人の顔を浮かび上がらせる。

 次に目を覚ましたとき、すでに窓から見える外の風景は薄暗くなっていた。朝と同じように、汗が吹き出てシャツが皮膚に引っ付いていた。身体をタオルで拭いていると、熱がひいていることに気づく。肌が部屋の空気に触れて、冷えていく。外から、子ども達のハシャギ声と母親達のおしゃべりが聞こえてきた。

 ひさしぶりに長く眠ったためか思考は伸びきったゴムのようにたるんでいた。吐き気は収まっている。たった2回、病院で渡された薬を飲んだだけなのに。昨夜のタクシー運転手と医者に感謝した。坊主頭の医者の顔は宮沢賢治になっていた。

 部屋の空気を入れ替えようと、窓を開けた。冬の夕方にしか流れない凛とした空気。乾いた土や枝の匂い。

 ぼくは新しいシャツを着て、久々に銭湯へ行った。このところ時間と金の節約のため、ずっと部屋に付いているシャワーで済ませていた。熱い湯気と石鹸の匂いが漂う浴場で、ベタつく汗や脂で重たくなった髪を洗って、熱い湯船に浸かった。銭湯の広い壁を見つめる。

 丸一日休んでしまった。本来なら五件のクライアントを回り、それぞれの見積書をつくらなければならない。企画書も残っている。今日、手をつけられなかった分を明日中にこなさなければならなのか……。まずは何から手をつけていくか考えてみたが、頭の中が湯気でぼんやりと曇って上手くいかない。明日のことは明日考えればいい。今日は、もう仕事のことを考えるのはよそう。

 銭湯から出た後、𠮷野家へ行った。胃が食べ物を求めていた。玉子をかけた牛丼をかき込みながら、体調が完全に回復したのを実感した。

 翌朝、会社へ行くとデスクの上にクリアファイルが置いてあった。中には、作らなければならない見積書が入っていた。誰かがぼくの代わりに作ってくれたんだ。向かいのデスクにいる石川に聞くと、どうやら川田部長が時間を調整してクライアント先へ行き、作ってくれたらしい。ぼくが丸一日掛かってしまう仕事。それを彼は自分の仕事の片手間でこなしてしまったのだろうか。見積書を一枚一枚確認しながら、上司の優秀さと自分の仕事の遅さを実感した。毎日終電近くまで掛かってしまうことを会社から与えられるノルマのせいにしていた自分が情けなくなった。ぼくはただ、社会や会社に不満を漏らして、自分自身に甘えていただけかもしれない。

つづく

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ほろ酔い文学

リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。