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(小説)白い世界を見おろす深海魚 23章(偽物との区別)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎は、ライター職として活躍している。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーンビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を受ける。

【前回までの話】
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23

「居場所がない、ってことかな?」
 塩崎さんは皿を手渡す際に呟いた。
 受け取る際に、細く白い指先が微かに触れた。

「わたしが言いたいのはね、安田君は本当の自分でいられる場所がないってこと。こういうの心理学の用語でなんていうんだっけ? 忘れちゃったけど、本当に居心地がいい場所を探している内に、自分自身がどうありたいのか分からなくなっちゃうっていう現象よ

 彼女は息を吹きかけて箸で摘んだ白菜を冷ます。七味、取ってくれる?……と、テーブル横にある陶器の瓶に目をやる。ぼくは蓋を開けて中身を確認してから、手渡した。

「もしそうだとしたら、わたしも同じだな。わたしはね、環境と自分とのズレを避けるために、安田君が持っているような感情をずっと前に捨てたの。今は周りの環境から価値観をテキトーに取り入れて、テキトーに自分を作って過ごしているだけ」

 だから今、安田君の前にいるわたしはテキトーな塩崎佳代なんだよ……
 と屈託のない笑みを向けた。料理の匂いを通り越して、甘い香りが体内に入っていくのを感じた。息苦しい。彼女を抱きしめて、胸の奥にその笑顔を取り入れたい衝動に駆られる。

 でも、できない。
 できないから、ぼくは皿に盛られた鳥団子を飲み込んだ。熱く、忌まわしいくらいに食道をゆっくりと伝っていく。グラスを掴み、ビールで流し込んだ。

 一息つくと、また沈黙ができていることに気がついた。他のテーブルからの浮かれた声が耳に入ってくる。無言をごまかすために、その場しのぎで「そっかぁ……」と、呟いてみた。

 でも、なにが「そっかぁ……」なんだろう。

 あまりにも言葉を見つけ出すのが下手なぼくに、しびれを切らしたのだろう。
「環境のせいにはしたくないけど……」と塩崎さんはつぶやいた。

「私たちは“偽物”になるしかないのよ」

 彼女の言葉に上京したばかりの自分を思い出した。50社近く受けて、ようやく入れた今の会社。社会への希望の第一歩は入社時に「お前ら覚悟しておけよ」と上司に脅されることで幕を開けた。

 毎朝社長が作った『顧客第一主義』の社訓を声に出して読まされ、さらには細かいルールで縛られる。失敗に対して厳しい罰が課せられるために、上司も部下が勝手な行動をしないか常に目を光らせている。

 一つのミスが勃発すると責任のなすり付け合いが始まる。

 こんな状況のなかで上の顔色を伺いながら、動くしかない自分。
 誰の意思で、ぼくは動いているのだろう。上司? 顧客? あるいはもっと上の……。

 たまに考える。

 どんどん偽物の自分が形成されていく感覚はあった。でも本物はどこにあるのだろう。そもそも、そんなものがこの世にあるのだろうか。

つづく

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#創作大賞2023


リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。