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【小説】白い世界を見おろす深海魚 74章 (窓のない部屋の夜明け)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業『キャスト・レオ』から広報誌を作成する依頼を高額で受けるが、塩崎は日々の激務が祟り心体の不調で退職を余儀なくされる。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田はどちらも理不尽と欲望に満ちた社会に棲む自分勝手な人間で構成されていることに気づき始めていた。本当に純粋な心を社会に向かって表現できるアーティストのミユは、彼らの利己主義によって黙殺されてようとしている。
傍若無人の人々に囲まれ、自分の立ち位置を模索している安田。キャスト・レオの会員となっていた塩崎に失望感を抱いきつつ、彼らの悪事を探るため田中という偽名を使い、勧誘を目的としたセミナー会場へ侵入するが、不審に思ったメンバーによって、これ以上の詮索を止めるよう脅しを受ける。
だが、恐怖よりも嫌悪感が勝っていた。
安田は業務の傍ら悪事を公表するため、記事を作成し山吹出版に原稿を持ち込んだ。


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74

 部屋に入ると、壁一面に描かれた深海を眺めた。前に来た時とは、どこか違う印象を抱いた。

「変わっちゃうんだよな……」
 ぼくのつぶやきに、電気ストーブを灯しているミユが振り向いた。
「なにが?」
「なんでもない」
  買い物袋から缶ビールを取り出して、プルトップを引っぱった。溢れ出してきた泡を口で抑えて、そのまま喉に流し込む。
「ちょっと、まだ乾杯してないのに勝手に飲まないでよ」
 ミユは缶ビールを奪い取り、ぼくを見上げる。これだけのことでムキになる彼女。それが面白くて、嬉しくて笑顔を向けるとミユは手に持っていたビールを勢いよく飲みはじめた。缶を口から離すと、全身の力を抜くように小さく息を漏らした。

「ねぇ、ここが壊された後は、何が建つと思う?」
 ぼくは数秒間だけ考えた。でも、分かるはずがない。
「でかいビル」と答える。
「テキトーなんだから」
 残りのビールを一気に飲み干す。
「じゃあ、ミユは何ができると思う?」
 ぼくは袋から新しい缶ビールを取り出す。
 ミユは視線を宙に泳がせてから「分かんない」と、ぶっきらぼうにこたえた。
「はぁ?」
 人に質問しておいて、自分はコレかよ。
「でもね……」と、彼女は言葉を続けた。
「あたしは、何もできなきゃいいと思ってる」
 その言葉の意味を、ぼくは少し考えた。冷たい壁を指先でなぞりながら。
「なにも? ずっと更地のままでいいの?」
 ミユは両手を前に伸ばした。ぼくの着ているワイシャツの胸の部分を、息苦しくなるほど強い力で掴む。
「そうよ、悪い? 古いものを壊したら、新しいものを創らなきゃいけない決まりでもあるの? まっさらな場所があったっていいじゃない」
 泣いているような、怒っているような顔を近づける。ビールのにおいのする熱い吐息が顔を撫でる。両手が震えていた。棘を飲み込んだような痛みが、胸の奥を走った。
「創らなきゃならない理由なんてないのよ……」
 手を離して、うなだれる。しわくちゃになったワイシャツの上に額を乗せてくる。

 ル・プランは計画倒れになった。上山との仲も良くない。今、ミユはいろんな感情が混ざりあって、どうしようもなく不安定なのかもしれない。この部屋一面に描かれた海のように、たくさんの澱んだ色が混ざり合っている。
「みんな消えちゃえばいいのに」
 ミユのつぶやきに、ぼくはうなずいた。
 ストーブの暖かさが部屋に広がりはじめる。

 目の前に光の筋が流れた。

 ぼくたちの前を素早く行き来していたが、思いついたように突然立ち止まる。小さなヒレの付いた生物。灰色のウロコで覆われていて、顔には毒々しいほどの赤い目玉が付いていた。周囲を見渡すと同じ形態の生物が何匹もいて、こちらを伺っている。

「タカアキの部屋にね、レコードが一枚あったの」
ミユが、ぼくの身体から離れる。
「レコード?」
「そう、あの黒い円盤。あいつ、レコードは持っているクセに、それを聴くための機械は持ってないの。アレって古いCDみたいなものでしょう? レコーダーと針が必要なんだよね?」
 強く目を閉じた後で、再び周囲を見渡すと、その生き物達はもう消えていた。
 疲れた身体にアルコールが入ったせいだろう。あれは幻覚だった。
 そう自身に言い聞かせたが、冷たい小石を飲み込んだような違和感が胸の奥で疼いていた。

 ぼくは手を伸ばした。灰色のウロコを持った醜い生物がいた場所に。

「どうしたの?」
 不安そうな眼差しを向けるミユに、ぼくは「なんでもない」と首を振る。
「なんで上山はレコードなんて持ってるの?」と、話題を戻す。
「父親の形見らしいの。ケースもなにもない丸裸のレコードが。一度も回したことがないから、どんな曲が入っているか分からない。そもそも、曲なのかどうか……」
あいつの父親は死んでいたのか。塩崎さんを抱いた……という、あの発言から憎しみのような感情を抱いていたが、ほんの少しだけ同情心が沸く。
「テレビの横に立て掛けてあったの」
ミユは仰向けになって、天井を見つめる。
「あんなに大切なものだとは思わなかったなぁ」
 呼吸をすると灰色のセーターの下に張り付いた小さな胸が上下した。
「ケンカした衝動で壊しちゃったの。他のものと一緒にね、バキッって……」と小さな唇を動かす。
「あいつ、大泣きしてた。バカみたいに。ううん。“みたい”じゃなくて、本物のバカなんだと思う。バカで、どうしようもなく哀れなヒトだよ
 次第に声が震えていく。目元には大きな涙のかたまりが揺らぎ、頬を伝って落ちる。上山には、ここまで想ってくれる人がいるのか。

 胸の奥がざわめいた。

 ぼくは寝転がった。遥か上空の白い太陽が目の前に描かれていた。
 彼女は芋虫のように身体をくねらせて、近づいてくる。伸ばしたぼくの右腕に頭を乗せる。身体を右に倒し、左手で彼女の頬を撫でる。彼女は目を閉じる。長いまつげが震える。小さく、桜の花びらのような唇に触れようとしたが、手を止めた。裸で抱き合う塩崎さんと上山の姿が頭に浮かんできたから。

 一定の呼吸音が聞こえる。いつの間にか、ミユは眠っていた。それとも、眠ったフリをしてるだけなのだろうか。

 電気ストーブの唸る音が響く。粘着性のある温かい空気と疲労で思考が鈍っていた。まぶたの奥で色んな光景が頭に浮かんでは、消えていく。塩崎さんも出てきた。でも、それがいつ見た彼女の顔だか思い出せないでいた。

 次に目を開けたとき、ぼく達を取り囲む海は完全に消えていた。息苦しさを感じさせる海水も、地面に広がる柔らかい砂もない。壁の絵は、単なる刷毛で塗られたペンキとしか見えなくなっていた。
 この世は色で溢れている。目に痛いぐらいに、あらゆる塗料で彩られている。漠然とした不安を塗りつぶすように。

 でも、ぼくは何もない空間と静寂を求めていた。

 次に目が覚めた時には、そんな世界が広がっていればいい。消失していく意識のなかで、ただ、ここがまっさらな場所にあることを願った。

 再びまぶたを開けたとき、以前と同じような世界が広がっていた。変わったのは腕時計の針の位置だけ。短い針は“4”の数字を指していた。多分、午前4時だろう。窓のない部屋だったが、身体の気だるさが早朝を感じ取っていた。
 右腕に乗っかったミユの頭をそっと退けて、立ち上がると、身体の節々に痛みが走った。

 彼女の寝顔を見下ろす。かたく閉じたまぶたと、曲線を描いた涙の痕。
 その姿は乾いた大地に置きざりにされた石のように、半永久的に形を変えないモノのようだった。

 背を向けて部屋を出ようと、ドアノブに手を伸ばした。音を立てないように、ゆっくりと開けようとしたが、立て付けが悪いため上手くいかなかった。回転する甲高い金属音が空気を響かせる。

「バイバイ」

 折れてしまいそうなほど繊細な声が、背中に向けて発せられた。
 今、ミユはどんな顔をしているのだろう。振り向きたい気持ちを堪えて、後ろ手でドアを閉めると、ゆっくりとまばたきをしてから暗い廊下を歩いた。
外の空気は冷たく、重たかった。
 カラスが訴えるように、明けようとしている空に向かって鳴き声をあげる。

つづく

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