見出し画像

【小説】白い世界を見おろす深海魚 52章 (10万円の決断)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(MLM)ビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を高額で受ける。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田は理不尽と欲望に満ちた社会での自分の立ち位置を模索する。
塩崎は身体と心の不調を理由に会社を辞め、クライアント先であった企業のMLM会員となっていた。

【前回までの話】
序章 / 1章 / 2章 / 3章 / 4章 / 5章 / 6章 / 7章 / 8章 / 9章10章 / 11章 / 12章 / 13章14章 / 15章 16章 / 17章 / 18章 / 19章 / 20章 / 21章 / 22章 /23章 / 24章 / 25章 / 26章27章 / 28章 / 29章 / 30章 / 31章 / 32章 / 33章 / 34章 / 35章 / 36章 / 37章38章 / 39章 / 40章 / 41章 / 42章 / 43章 / 44章 / 45章 / 46章 / 47章 / 48章 / 49章 / 50章 / 51章

52


「本屋だったの。よく街中にある大型の書店じゃなくて、商店街にある小さな本屋さん。パパが十二年前に死んでから、ママとパートさんの二人で切り盛りしていたんだけどね。住んでいる人が減っちゃって経営難になったの。ママも六十を過ぎているから『もうお店を畳んだことだし、ゆっくりと年金生活を送ればいい』って、言ったんだけど『借金が残っているから、それはできない』って……」

タバコの煙を外に出すために、数センチだけ窓を開けた。冷えた空気が吹き込んで熱くなった顔を冷やす。

「来週から工場と清掃会社でパートをすることになったみたい。本当は就職したら、親にお金を送って楽をさせてあげようと思っていたのだけれど、わたしはわたしで大学に学費を借りていたから、毎月貰う給料から少しずつ返していくので精一杯だったし。同世代の女の子のようにブランドものを身につけず、ろくに遊べない生活も辛かったし……」

 ぼくは相槌を打ちながら聞いた。塩崎さんの手元にあるタバコはろくに口に運ばれることなく灰となっていく。

「お金はないし、毎日朝8時から終電まで働かされる。休日もほとんどない。こんな生活から抜け出したいと思っていたときに、ちょうどキャスト・レオの取材が入ったのよ。その日、わたし達、呑みに行ったじゃない。その帰りに斎藤さんにメンバーになることを薦められたの。『君の場合は入会金はいらない。それどころか入ってくれさえすれば10万円を払うよ』って言われたの。入会しただけで、10万円よ? 信じられる?

 苦笑しながら、陶器でできたクマの形をした灰皿にタバコを押し付けた。

「そのときかな、今まで耐えていたものが破裂する音が聞こえたの。胸の中で『ボン』って。すると、急に今までせかせか働いていた自分が惨めになって、なんのやる気もなくしちゃったの。もう疲れちゃったな……って思いが溢れてきたの」

 うん、ぼくは曖昧な返事をする。気持ちは分からなくもない。ぼくだって仕事を辞めたいと毎日のように思うし、気軽に金を稼げる方法があれば飛びつきそうになる。そんな上手い話が世の中にあるはずもないと疑いながらも。

「塩崎さんは疲れていたんだよ。だから……上手くいかないことが、すごく負担になっちゃったのだと思う。もうちょっとの間、休むといいじゃないかな。そうしたら、気持ちも落ち着いてくるし、冷静な判断もできるようになる」

 ぼくは笑った。彼女を安心させるための作り笑い。上手くできただろうか。

「そろそろ帰るよ」
 ぼくは立ち上がり、玄関へ行った。

「また、グラタン食べさせてよ」
 帰り際に言うと塩崎さんは「うん」と笑った。

ためらう腕に力を入れてドアを閉めた。眼を合わせないようにしながら。
 部屋を出て、アパートの階段を下りる。振り返ってみたが、今度は塩崎さんが追ってくることはなかった。

 歩いている途中で石川啄木が作った詩を思い出す。その詩を何度も頭のなかで繰り返しながら、パチンコ屋のネオンがまぶしい駅を目指した。


 働けど働けど 猶我暮らし楽にならざり ぢっと手を見る

『一握の砂』(石川啄木)


つづく

【次の章】

【全章】
序章 / 1章 / 2章 / 3章 / 4章 / 5章 / 6章 / 7章 / 8章 / 9章 / 10章 / 11章 / 12章 / 13章/ 14章 / 15章 / 16章 / 17章 / 18章 / 19章 / 20章 / 21章 / 22章 /23章 / 24章 / 25章 / 26章/ 27章 / 28章 / 29章 / 30章 / 31章 / 32章 / 33章 / 34章 / 35章 / 36章 / 37章/ 38章 / 39章 / 40章 / 41章 / 42章 / 43章 / 44章 / 45章 / 46章 / 47章 / 48章 / 49章/ 50章 / 51章 /52章 / 53章 / 54章 / 55章 / 56章 / 57章 / 58章 / 59章 / 60章 / 61章/ 62章 / 63章 / 64章 / 65章 / 66章 / 67章 / 68章 / 69章 / 70章 / 71章 / 72章 / 73章/ 74章 / 75章 / 76章 / 77章 / 78章 / 79章 / 80章 / 81章 / 82章 / 83章 / 84章 / 85章/ 86章 / 87章

#創作大賞2023

この記事が参加している募集

眠れない夜に

リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。