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(小説)白い世界を見おろす深海魚 31章(恫喝の方法)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎は、ライター職として活躍している。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーンビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を受ける。

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31

 エレベーターを降りて、廊下を歩いているとオフィスから怒声が聞こえてきた。

 また石川が川田部長に怒られているな……。部長も、よくあれだけ毎日怒る気力と体力があるもんだ。うんざりした気分でドアの把手を押そうとしたとき、胸騒ぎがした。
 川田部長の声ではない。

 彼の叱る声は、もっと低くて威圧感がある。しかし耳に入ってくる声は泣き叫ぶようで、固い壁をナイフで削るように攻撃的だった。

 ドアを開けて、急ぎ足でデスクに戻ると川田部長と石川が向かい合っていた。二人を困惑した顔の社員達が囲んでいる。

「毎日毎日、勝手なことを言いやがって。俺を脅して、なにが楽しいッ」

「落ち着け……」と肩を抑える先輩社員の手を乱暴に振りほどいて、顔を真っ赤にした石川が川田部長に食らいつく。

「オマエは脅せば、俺が思い通りに動くと思っているようだな。だけど無理なんだよ。できないんだよ。どうしてもミスしちまうんだよ。俺はオマエのロボットにはなれないんだよッ」
「上司に向かって“オマエ”とはなによ。アンタ言葉に気をつけなさい」
 他部署の女性社員が駆けつけ、高い声を響かせる。
「うるせー。ブスは黙ってろッ」
 女性社員は悲鳴に似た叫び声をあげた。

 もう、しばらく外に出ていようかな……。
 ぼくはうんざりした気分で、ため息をついた。

 石川は怒りが過ぎて、理性をなくしてしまっている。今まで溜まっていたものが最悪な状態で吹き出しているのが、誰の目にも明らかだった。

 このままでは、絶対に後悔することになるな。

 ぼくが川田部長に怒鳴られ続けていたとき、怒りが溜まって……でも発散の仕方が分からなくて、血の味がするほど頬の内側を噛んでひたすら耐えるしかなかった。

 そうやって辛抱しなければならないものだ。
 社会にいると他人から理不尽なことで叩かれる。
 命取りとなるようなミスも点在している。

 そんな馬鹿げた場所で生き残るために川田部長はあえて、厳しい態度をとっているんだ。自分に言い聞かせてきたことを石川に伝えたかった。でも、状況を傍観する以外なにもできなかった。口を挟むと事を余計に大きくさせそうな気がしたから。

「ブスって……あんたねぇッ」

 真っ赤な顔をして突進してくる女性社員を、どこか白けた表情の川田部長が手で制する。

「毎晩、夜遅くまでテメェの監視に怯えて。もう……たくさんだ。俺は奴隷か? この会社の奴隷なのか? オマエは俺を殺す気か?」

 石川は肩で息をして、頭を抱える。「だから……こんな会社……」と叫ぶが言葉が続かない。代わりに目から驚くほど大量の涙を吹き出した。肉食動物に咬まれた獲物のような嗚咽を漏らし、うずくまる。
 取り囲む社員の中から「狂ってやがる」という嘲笑が聞こえた。

 川田部長はうずくまった石川を見下ろすのを止めて、自分のデスクに着いた。何事もなかったかのように、パソコンに向かって仕事を再開した。その異様な状況に他の社員は互いに目を合わせる。

 これでいいのだろうか……という不安の表情。これで、この事件は終了なのか。

 たしかに、狂っているのかもしれない。石川も、彼を狂わせた会社も、狂わなければ生きていけない社会も。全てがどこかでズレている。誰も正そうとはしないから、あらゆる物事は未解決の状態でいる。それを、このまま目をそらしてやり過ごしていいのだろうか。

 私たちは〝偽物〟になるしかないのよ……。

 塩崎さんの言葉をフッと思い出した。

 他の社員が散っていく。誰も石川に声を掛けない。それは無関心から来るものではなかった。彼に何を言えばいいのか分からないのだ。ぼくも床に額を付けたままの石川をどうすればいいのか分からず、しばらく悩んだ。同じ部署の先輩として、するべきことがあるはずだ。
 ぼくは石川の側に、しゃがみこんだ。
「もう、今日は帰れ。残っている仕事は俺がやっておくから。とりあえず顔でも洗って来いよ」
 石川の背中に手を置く。彼はしばらくうずくまった状態を保っていたが、やがて静かに立ち上がって、ぼくに頭を下げた。黒々とした隈が真っ赤な目を際立たせて、不気味だ。
「……すみません」と、消えてしまいそうな声で呟いてから、あらゆる物事に絶望した人間のように肩を落としてトイレに向かった。その背中を見ながら、個室で首を吊るんじゃないか、と心配になった。

 ぼくはデスクに着いて、自分の仕事に取りかかった。横目で川田部長を覗くと、相変わらず険しい目つきでパソコンと向き合っていた。部下があれほど嘆いているのに、無視するなんて。この男は何を考えているのだろう。

 15分ほどして石川が鼻を啜りながら戻ってきた。とりあえず、生きて戻ってきたことに安堵した。視線が定まり、呼吸も落ち着きを取り戻している。
「……すみませんでした」
 彼は、ぼくの近くへ来ると頭を下げた。
「俺に謝るよりも……」と、ぼくは川田部長の方に視線を向けた。
 でも、石川は川田部長の方には行こうとはしない。書類の束を広げて「すみません。まだ○○社の企画書に使うサンプル写真が見つからなくて。それと○○会社に提出する制作スケジュールも、まだできていません」と、引き継ぎをしてきた。
 数分前の言葉を後悔しながら「あぁ、分かった」と引き受けることにした。
 石川は手早くビジネスバッグに荷物を詰め込むと、逃げるように足早でオフィスを去った。それから1時間ほどして川田部長も、いつものように無言で帰宅した。

 事件の当事者である二人がいなくなった後で、同じ部署の先輩が声を掛けてきた。
「石川のヤツ、明日ちゃんと出社するかなぁ?」
「さぁ、どうでしょうね」

 ぼくは首を傾げた。来なければ困る。新人の彼にも仕事が山ほどあるのだ。いくら簡単な仕事ばかりだからって、抜けられるのはツライ。

「お前も仕事を引き受けるなんて、余計なことしなくていいんだよ」

 先輩の苛立ちが含まれている言葉に、ぼくは「いやぁ」と曖昧な笑みを浮かべた。石川の残した仕事は思ったよりも多かった。自分の仕事と合わせると終電には間に合いそうにない量だ。もう間もなく日付が変わろうとしている。ぼくはパソコンで乾燥した目を強く閉じて、まぶたの上からマッサージをした。今日は徹夜の作業になりそうだ。

つづく

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#創作大賞2023


リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。