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【小説】白い世界を見おろす深海魚 76章  ( 別れのごめんね)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業『キャスト・レオ』から広報誌を作成する依頼を高額で受けるが、塩崎は日々の激務が祟り心体の不調で退職を余儀なくされる。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田はどちらも理不尽と欲望に満ちた社会に棲む自分勝手な人間で構成されていることに気づき始めていた。本当に純粋な心を社会に向かって表現できるアーティストのミユは、彼らの利己主義によって黙殺されてようとしている。
傍若無人の人々に囲まれ、自分の立ち位置を模索している安田。キャスト・レオの会員となっていた塩崎に失望感を抱いきつつ、彼らの悪事を探るため田中という偽名を使い、勧誘を目的としたセミナー会場へ侵入するが、不審に思ったメンバーによって、これ以上の詮索を止めるよう脅しを受ける。
だが、恐怖よりも嫌悪感が勝っていた。
安田は業務の傍ら悪事を公表するため、記事を作成し山吹出版に原稿を持ち込んだ。


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76

「元気だった?」
 高ぶった気持ちを抑え付けて言葉を出す。

「ちょうどよかった。わたしも安田君に連絡しようと思ったの」
「あぁ、年末のときにした約束だろ? 今度一緒に飲みにでも行こうよ」

 ぼくが、そう言うと彼女は黙った。
 息を吸う音が聞こえる。受話器の向こう側に漂う重たい空気。良くない兆候に浮かれた気持ちが、かき消された。
「どうしたの?」

 彼女はゆっくりと応えた。
「このお正月に親と色々話してね……」
 彼女の消えてしまいそうな声をつなぎ止めるように、ぼくは「うん」と相槌をした。少しの間を置いてから「実家に戻ることにしたの」という言葉が聞こえてきた。

 ぎゅっと喉の奥にあるものを締め付けられたような気がした。彼女は遠くへ行ってしまう。もう逢えないんだ。膝の力が抜けていく。手に持っていたビニール袋が急に重たく感じた。中には『アリシア』が三冊入っている。

「いつ帰るの?」
 動揺を悟られないように震えを堪えて、ゆっくりと声を出した。
「もう荷物もまとまっているから、来週の木曜日に帰ろうと思うんだけど……」

「随分、急な話だね」
 急すぎる。なんで、今になってそんなことを言うのだろう。
 そう考えた後で、最近までキャスト・レオの原稿を書くことに意識がいっていた自分に気づく。

 少しの沈黙の後、塩崎さんの「ごめんね」とささやくのが聞こえた。
「でも、よかった……帰る前に安田君と連絡ができて。ねぇ、また会えないかな?」

ごめん……と今度は、ぼくが謝った。
「今週は、仕事で埋まっているんだ」

 先ほどまで、勤め先なんてどうでもいい、なんて強い気持ちがあったのに。仕事を理由に断る自分が情けなかった。

 塩崎さんの顔を見たくなかった。
 もう会うことのない彼女の顔を見たら、きっとぼくは。

「ううん、突然の話で悪かったわ。また今度、お互い時間のあるときにでも会おうね」
「そうだね」
 相槌を打ってみたが、やはりもう会えないかもしれない、という思いが頭の片隅にあった。
 また今度。明確でない未来。
 きっと塩崎さんは、しばらく東京に来ることはないだろう。必死で働いて、騙されて……辛い思い出を作ってしまった、この街なんかに。

「じゃあ、またね」
 塩崎さんが電話を切る言葉を告げる。これが最後の言葉かもしれない。

「あっ、ちょっと待って」
 ほぼ無意識に叫んでいた。受話器の向こうで、目を見開いて驚く彼女の顔が浮かぶ。
「ええと、あの……」
 次の言葉が見つからない。なんと言えばいいのだろう。元気で。そのうち良いことあるよ……
 違う。やっぱり彼女にかける言葉が見つからない。どれもカラッポで、その場しのぎのような言葉になってしまう。

「俺、送りに行くよ」
「えっ?」
「木曜日に帰るんだろ? その日に必ず見送りに行くから」

 少しの間ができた。目の下に水滴が流れた。指で拭った後、空を見上げた。
 それは月を隠す黒雲から漏れた雨粒だった。

「でも、仕事は?」
「なんとかして時間を作るよ」

 空から落ちてくる水滴がアスファルトによって弾かれた。その数が次第に増えてゆき、本格的な雨になる。

 道路も、家も、電信柱も。黒く塗りつぶしていく。
 冬の空気が溶け込んだ雨水のニオイが鼻を突く。

「ありがとう。でも、無理しないでいいよ」
 彼女は震えた声を出した、鼻を一回、すすってから電話を切った。

 携帯電話をポケットの中に突っ込むと、ぼくは足下に落ちている雑誌の入ったビニール袋を手に取り、道路脇にあるゴミ捨て場に向かって投げつけた。抽象的な絵が描かれた雑誌が無造作に飛び出す。

 どうしてこうなっちゃうんだろう。こんなにツライことばかりが続くのだろう。その場にしゃがみ込む。嗚咽が漏れると同時に、涙が出てくる。頬を覆う温かい涙は雨と混ざり合った。

つづく

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ほろ酔い文学

リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。