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【小説】白い世界を見おろす深海魚 50章 (白昼夢の海)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーンビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を高額で受ける。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田は理不尽と欲望に満ちた社会での自分の立ち位置を模索する。

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 駅から10分ほど歩いたところにアパートがあった。入り口には花壇がある。冬のせいか花はなかったが、とんがり帽子をかぶった陶器製の小人がいた。木造の壁は白く塗られていて、所々に常葉樹のツタが絡まっていた。プレートには『サンディービーチ板橋』と書かれていた。板橋区に海はない。この建物が海の側で佇んでいる様子を想像してみた。青い海とカモメ、バルコニーでくつろぐ白い犬も付け加えて。それは、会社のロビーにありそうな一枚の水彩画のような風景だった。でも、板橋区に海はない。

 二階の角部屋が塩崎さんの住処だった。財布から鍵を取り出し、ドアノブに付けられた鍵穴に差し込む。ガチャッという音と共に、ぼくはツバを飲み込んだ。その音が聞こえたかどうかは分からない。ただ彼女は、ぼくを見上げて微笑みを浮かべた。

 ドアが開く。玄関はひとり入れるのがやっとのスペースだった。ぼくは開いたドアを手で支えたまま、塩崎さんが尻を突き出してブーツを脱ぐ姿を眺めていた。

 先に部屋に入った彼女が電気を点けた。ぼくの住んでいるアパートよりも狭かったが、壁や床は新しく綺麗だった。彼女は四葉のクローバーの形をしている脚の低いテーブルの隣にクッションを置き「ここに座って待ってて」とホテルマンのような仕草で手のひらを伸ばした。

 クッションは小ぶりで座りにくかった。居心地の悪さを感じながら、グラタンの入ったフライパンを温めている彼女の後ろ姿を見た。

「何か俺に用があるの?」

 10秒ほどの沈黙の後、彼女はフライパンに目を向けたまま「うん、後で話すね」とヘラで料理をかき回した。

 再び沈黙。フライパンからグラタンの煮え立つ音が、この部屋を占めていた。

 彼女もこの沈黙がもたらす重たいような、くすぐったいような空気を感じとったのか「テレビ観てていいよ」と言ってきた。

 テーブルの上に乗っかっているリモコンに手を伸ばし、テレビを点けた。ニュース、バラエティ、サザエさん……。次々にチャンネルを変えていく。一通りの放送局を回ったところで、ニュースにチャンネルを合わせた。茨城県で十八歳の少年が母親を刺したという事件をアナウンサーは淡々と報道していた。

「お待たせ」

 部屋の中はグラタンの匂いで満ちていた。

「お腹が空いていたでしょう? てんこもりしておいたから」

 山盛りにしてあるエビとブロッコリーの入ったグラタン。フォークを二つずつテーブルの上に置く。

「ビール飲む?」

「あっ、気を使わなくてもいいよ」

「飲もうよ」
 彼女は冷蔵庫から缶ビールと、グラスを2つ持ってきた。

「ハイッ。じゃあ、いただきます」
 塩崎さんは、ぼくの対面に座りフォークでマカロニを刺した。

「熱いから舌を火傷させないでね」と、息を吹きかけた。すぼませた唇から息が流れ、皿の上に漂っている湯気が揺らいだ。

「最近は何をしているの?」

 ぼくがそう訊くと、彼女は「んー」と考えた。数秒、間を置いて「特になにもしてない」と笑う。

「仕事をしていたときには、なかなか読めなかった本を買ったり、手間のかかる料理を作ってみたり、後は夕方にマラソンをしている」

「仕事は?」

「まだ探してない。もうちょっとゆっくりしていたいから」

 塩崎さんは缶ビールを開けようとしていた。長い爪では、上手くいかない。代わりに、ぼくが開けて二つのグラスにビールを注いだ。

「どっか旅行にでも行ってみたら?」

「そうね、沖縄に行ってみたいわ。わたし北国出身だから、暖かいところに憧れるの。強い日射しと青い海、ヤシの木が生えている場所に」

 常夏の海が好きなのだろうか。アパートの名前も『サンディービーチ』だし。サングラスをかけて、浜辺でくつろいでいる塩崎さんを想像した。そこの強い日射しは、彼女の白い肌に不釣り合いな気がした。

 今度のニュースは、ありきたりな政治家の汚職献金事件を流していた。食事に似合わない内容だと思ったのか、塩崎さんはリモコンでテレビを切った。そして「最近仕事はどう?」と、聞いてきた。

「相変わらずだよ」

 ぼくはしかめっ面をして見せた。

「パソコンを沖縄の海に投げ捨てる夢ばかりみている」

 塩崎さんに「それが実際にできたら最高ね」と笑った。

 お互いの近況を話しながらの食事を終えた後、塩崎さんはコーヒーをいれてくれた。コーヒーメーカーからは、咳き込むような音と共に香ばしい匂いがした。

 丁寧に暮らしている。狭いキッチンに立つ彼女の後ろ姿を見て、そう思った。ちゃんと料理を作って、コーヒーをいれることのできる生活。ぼくのように時間を惜しむためにコンビニエンスストアで弁当を買い、冷蔵庫に買いだめしておいた缶コーヒーを消耗する日々とはかけ離れていた。

つづく

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