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【小説】白い世界を見おろす深海魚 54章 (午前0時 街の風)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を高額で受ける。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田は理不尽と欲望に満ちた社会での自分の立ち位置を模索する。
塩崎は身体と心の不調を理由に会社を辞め、クライアント先であった企業のマルチビジネスの会員となっていた。

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54

 腹の中で何かがうごめいているような気がして、目が覚めた。

 身体にのしかかっている布団を蹴り飛ばして、トイレに駆け込んだ。便器に向かって口を開けた途端に酸っぱい液体が大量に吐き出される。腹の中でうごめいているものは消えない。視界が鈍る。
 喉に中指を突っ込み、できるだけ胃の中のものを吐き出そうとした。そうすれば楽になれるはずだ。何度も腫れ上がっている喉を指で刺激させた。
 しばらく、そうしていると少し気分が落ち着いてきた。ぼくはバスタブに座り込み、呼吸を整える。額に手を当てると、まだ熱は下がっていなかった。それどころか、帰宅した時よりも上がっているようだ。テレビの上に乗せてある時計を見た。短い針は“12”を通り過ぎていた。ぼくは冷たくこわばったジーンズに脚を通し、寝巻きにしているスウェットの上からダウンを羽織った。タンスの中から保険証と緊急時用に取っておいた一万円札の入った封筒をつかみ、アパートを出た。

 寝静まった街。闇の中で漂う風が頬をなでる。

 アパートから一番近いコンビニエンスストアの前に立つ。寒い。自動販売機で暖かい飲み物を買おうとしたが、なにも飲む気が起こらなかった。コーヒーも紅茶もホットレモンも、飲んだ瞬間に再び吐き気が襲ってくるような気がした。

 10分ほど待っただろうか。いや、実際は3分ぐらいかもしれない。こちらに向かって走ってくるタクシーを止めた。開いた扉から芳香剤のニオイがした。なぜか、それが胃を落ち着かせてくれた。

「この辺りに、夜間に内科の診療をしている病院はありますか?」
 後部座席にもたれかかって、運転手に訊く。

「区の総合病院でいいですか?」
 中年男性の運転手が質問で返す。

「お願いします」

 運転手は、「ハイ」と短く返事をして車を走らせた。

 病院に着くまでの間、吐き気から意識を逸らすために車窓を眺めていた。流れる外の風景に目が回ってくると、次は運転手に目を向けた。帽子の脇から見える白髪まじりの髪。襟足の部分からはみ出ている肉は中年特有のたるみが出ていた。ダッシュボードに取り付けられている顔写真付きのネームプレートには、特徴のない名前と角張った顔つき。

 今は、どの辺りを走っているのだろう……。
 トンネルに入る。オレンジ色の光が車窓から差し込み、一定の間隔で明滅する。

「着きましたよ」という運転手の声に、重たい身体を座席から起き上がらせた。ダウンのポケットから財布を取り出す。彼が運転中に、なにも話し掛けてくれなかったこと。何台もの車を追い抜いて病院まで飛ばしてくれたことに感謝した。

「このまま、まっすぐ行けば夜間専用の入り口に着きますよ。本当はもっと建物の近くまで行きたかったのですが、救急車が止まっていているから、ここで我慢してください」

 運転手にお礼を言って、裏口の自動ドアを抜けた。受付に保険証を差し出し、待合室に設置されている薬品の匂いが染み付いたベンチに座る。ぼくと同じように数人の患者が診療を待っていた。

 暗く、静かで、湿っぽい空間。時折、咳と看護士のリノリウムの廊下を駆ける音が、暗い通路に響いた。一回だけ、担架に乗せられた救急患者が目の前を通り過ぎた。六十を過ぎたあたりの中年女性で脂汗をたらしながら、うめき声をあげていた。

 胸の辺りをかき回されるような不快感がよみがえり、再びトイレで黄色くて酸っぱい液体を吐いた。口をうがいさせているときに、待合室で自分の名前が呼ばれるのを聞いた。

「どうしました」

 ヨレヨレのくたびれた白衣を着た坊主頭の医者が、カルテとぼくの顔を交互に見ながら尋ねてきた。

「吐き気と熱っぽさがあるんです」

「いつからですかぁ」

 不自然にやわらかい口調だった。この医者は、中学生の教科書に載っていた宮沢賢治に似ている。

「今朝からです」とこたえたが、すでに日付が過ぎていることに気づく。

 医者は冷たい聴診器を身体にあてた後、喉を見た。

「あー、あぁ……腫れてますね。抗生物質を出しておきますから食後に飲んでください。お大事に」

 診療はアッサリと終わった。

 医者にお礼を言い、診察室を出た。待合室の給水機で薬を飲み、再びタクシーでアパートに戻った。

つづく

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