(小説)白い世界を見おろす深海魚 28章(組織の底辺)
【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎は、ライター職として活躍している。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーンビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を受ける。
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28
ぼくはデスクに着き、締め切りの近い順にやるべき仕事をメモ用紙に書き並べる。一つの仕事が終わるたびに二重線を引いていくようにしているが、メモ用紙に書かれたリストをその日の内に全て終わらせられたことはない。大抵は二つか三つ残したまま、終電車に急ぐことになる。そうやって焦りながら、一日の大半の時間を費やしている。多分、ライターやデザイナーといった制作物の発行日が明確な人間は、もっと忙しないだろう。
卓上カレンダーに目を向けると12月に入ったことに気づく。もう、今年も終わりなのか。
一年を振り返ろうとしても、仕事の苦い経験しか出てこなかった。楽しい思い出を謳歌する小学校の卒業式のようにはいかない。分かってはいるが、作り笑いとノルマに疲労を感じる日々に意味はあるのだろうか……と考えてしまう。
くだらない年も終わりを迎える。新たな年は、もっとくだらないことが待っているのかもしれない。大晦日までの残りの日数を指でなぞる。最近では物事の始まりよりも、終わりに期待感を抱いている自分がいる。
「おはようございます」
入社5年目の先輩社員が勢いよく椅子から立ち上がり頭を下げる。
川田部長がやってきた。
寝起きから続いているふやけた思考が、一気に硬直する。正面デスクの社員からも緊張の表情が浮かぶ。
ぼくと後輩の石川も立ち上がる。場の空気が一気に緊迫する。パソコンから氷柱が垂れ下がっているのではないかと思うほどの寒気が背筋に走る。
川田部長は黙ったまま、部署の人間を見渡せるように設置された広めのデスクに着いた。彼は決して部下にあいさつをしない。音を立てて席に座るのを見届けると、他の社員も席に着く。無言の空間でキーボードを叩く音が再開する。
これが営業部の朝の名物行事となっている。他の部署……例えば、デザイン部ではもう少しラフなあいさつから始まる。1、2時間遅刻してきた先輩社員が気怠そうに「おはよー」とつぶやく。部下もマウスを手に持ったまま睡眠不足の顔を液晶モニターに向けたまま「おはよーです」と漏らす。
「あいさつを返さない人間なんて、社会人としてサイテー」
編集部の塩崎さんは営業部の朝の光景を見て、文句をつけた。
ぼくもそう思っている。今の部署に配属されたばかりの頃、あいさつを返さない川田部長の様子を見て、勝手に彼はこういった慣習的なコミュニケーションを嫌う人間なのだ、と思っていたこともあった。ためしに出社しても何も言わずに黙々と作業を続けていると、先輩社員に座っている椅子を力いっぱいに蹴られた。真っ青な顔をして「何やってんだ。ちゃんとあいさつしろッ」と怒鳴られ、そのときに気づいた。川田部長はあいさつを嫌う人間ではなく、部下にはあいさつを返さなくていい、とみなしている人間なのだと。
川田部長が席に着いて30分ほど経ったときだった。
「オイ……」と誰かを呼ぶ声が聞こえた。怒りがこもっている。突っ張った首筋を無理矢理動かして、ぼくは川田部長の方を見た。薄い眼鏡レンズの向こうにある尖った目は、ぼくではなく石川に向いていた。瞬間的に自分が呼ばれたのではなかった、という安堵感と、これから怒鳴り声を聞かなければならない嫌悪感が胸に広がる。
「この間、イイヤマ興産に飛び込みで営業かけただろ?」
パソコンの脇から石川の様子を盗み見た。彼は口を開けて、川田部長を見つめていた。話の意図がつかめずにいるようだ。
「覚えてないのか? 品川にあるでかいビルの会社だよ」
思い出したのだろう。石川の表情が一変する。目を大きく広げて、顎を微かに震わせている。
「営業かけたのか、かけていないのか聞いているんだよ」
語気をさらに強めて、川田部長は睨みつける。
「……ました」
弱々しい言葉が返ってくる。
「あん?」
まるでチンピラが小学生にカツアゲしているような口調だ。
ぼくは時計を見た。少し早いけど、営業先へ行こうとカバンに資料をつめる。
「行きましたッ」
観念したのか石川は半分泣き叫ぶように返事をした。
その言葉と、ほぼ同時に「馬鹿やろうッ」という怒声が耳に突き刺さってきた。当事者でないぼくの心臓も激しく揺れた。
「あそこは、すでにウチのクライアントなんだよ。それなのに営業かけてどうするんだッ。今、広報部の部長から、お宅は社員にどんな教育をしているんだ……ってメールが来たぞ」
早くここから出よう。ホワイトボードに行き先の会社名と帰社予定時刻を書いて、ぼくはオフィスから逃げた。
つづく
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#創作大賞2023
リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。