【小説】白い世界を見おろす深海魚86章(灰色の世界を見上げる)
【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業『キャスト・レオ』から広報誌を作成する依頼を高額で受けるが、塩崎は日々の激務が祟り心体の不調で退職を余儀なくされる。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田はどちらも理不尽と欲望に満ちた社会に棲む自分勝手な人間で構成されていることに気づき始めていた。本当に純粋な心を社会に向かって表現できるアーティストのミユは、彼らの利己主義によって黙殺されてようとしている。
傍若無人の人々に囲まれ、自分の立ち位置を模索している安田。キャスト・レオの会員となっていた塩崎に失望感を抱いきつつ、彼らの悪事を探るため田中という偽名を使い、勧誘を目的としたセミナー会場へ侵入するが、不審に思ったメンバーによって、これ以上の詮索を止めるよう脅しを受ける。だが、恐怖よりも嫌悪感が勝っていた。安田は業務の傍ら悪事を公表するため、記事を作成し山吹出版に原稿を持ち込み、出版にこぎつける。大業を成し遂げた気分になっていた安田に塩崎から帰郷するという連絡がくる。さらに、キャスト・レオの中傷記事の筆者であることが勤め先に知られることとなる。
安田は自分が置かれた状況のプレッシャーから逃れるため、退職前に塩崎がデスクに残していった抗うつ剤を服用して、キャスト・レオへ謝罪に向かった。
それが起因したのか、安田はキャスト・レオの応接室で気を失い病院へ搬送される。診察を終えると待合室で青田が待っていた。
青田は中傷記事の責任を問わず、むしろその行動をとった安田を評価する。そして、彼女の想いを伝える。
本当に憎むべき人間・組織は誰だったのか。曖昧な気持ちを抱いたまま、安田は病院をあとにした。
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86
塩崎さんから連絡のあった次の週の木曜日、ぼくはクライアント先に行くふりをして、職場から彼女のアパートへ向かった。
その日は、この冬一番の寒さで夜からの降雪率が70パーセントだと気象予報士が伝えていた。
「ありがとう」
彼女は近くの自動販売機から買ってきた缶のお茶を差し出してきた。
ぼくは二人分の缶を受け取り、彼女の分を空けてやる。体は凍えているのに指先だけが熱く、じんわりと痛んだ。
「実は来てくれるとは、思ってなかったんだ」とお茶を受け取りながら、うつむく。
からっぽの部屋を見渡した。この前に入ったときには気づかなかったが狭く、壁の所々が汚れている。そんな場所でも塩崎さんにとっては、唯一の安息できる場所だったのかもしれない。微かに彼女の甘い匂いが、名残惜しそうに空間を漂っている。
「この部屋ともお別れだね。色々あったなぁ……」
大袈裟に哀愁を込めて言った。冗談のつもりらしいが、目を細め、部屋を眺めている顔は弱々しくさびしそうだった。何もない空間に伸びた二つの細い影。その光景は不吉な絵画のようで、不安が胸を圧迫させた。
一足先に部屋を出て、曇り空を仰いだ。太陽は灰色の重たい雲の向こう側にあった。夜を待たずに、今すぐにでも雪が降りそうだ。
アルミの味のする熱いお茶を飲みながら、欄干に寄りかかる。街路樹の下で一匹のやせ細った子猫が毛繕いをしていた。こいつは今夜の寒さを乗り切ることができるのだろうか。そんなことを考えていると、ドアを開く音がした。
「ごめん、お待たせ」
肩にぶら下げているボストンバッグが重そうに揺れていたので、ぼくが代わりに担ぐことにした。
平日の昼間。どこかあか抜けない街をぼく達は肩を並べて歩いた。スーパーマーケット、パチンコ店、マンション。全てが空の灰色を反映させているようにくすんでいる。
「私ね、十八のときに東京に出てきたの。高校生のときから付き合っていたカレシと一緒の大学に通うことが決まったとき、凄く嬉しかったなぁ。ずっと、ずーっと一緒だと思っていた。大学で一緒に勉強して、卒業して、結婚しちゃおうって思ってた。そんな未来を妄想して、夜にベッドの中でニヤニヤしていたときもあったっけ」と、口に手を当てて笑った。
「でも、上手くいかないもんね」
「フラれちゃったんだ……」
ぼくの言葉に、彼女は首を横に振った。
「ううん、私の方からフッたの。彼、大学に進学してからなにかが変わっちゃったの。あのときは、男心がよく分からなくて凄くツラかった」
今は分かるのだろうか……。そんな疑問が浮かぶ。
口から漏れた白い息は乾燥した空気に漂い、消えていった。トレンチコートのポケットに両手を突っ込む。
寒さのせいだろう。塩崎さんの頬と鼻先は赤くなっていた。それは東京の女性というよりも、北国の女の子のようにどこか粗野で……初めて見る彼女だった。
「十代の恋愛なんて、そんなもんなのかな。考えてみると、その人自身に恋をしているわけではなく、その人から魅力を見出している自分が好きだった……ような気がする」
「安田君も、そんな体験したの?」
塩崎さんは口元を緩めてイタズラっぽい眼を向けてくる。
「まぁね」
ぼくは目を逸らして、笑った。
久々に……いや、こんな軽い気持ちで彼女と会話をしたのは、もしかしたらこれがはじめてかも知れない。日常で溜まった胸の中にある重みがスッと消えていくような感覚。
ずっと、こんな会話ができたらいいのに。
ぼくは横目でもう一度、彼女の顔を見た。いつもより薄い化粧のせいか、一つの笑顔からたくさんの複雑な想いを見出すことができた。塩崎さんという人物が、自分のなかで形成しつつある。別れ際なのに、ようやくそれができたことが悔しかった。
駅に着くと塩崎さんは券売機へ行った。その間、ぼくは発車時刻を確認する。「後、3分で電車が来るよ」
そう言うと彼女はうなずいた。
うなずいただけだった。脚は改札口へは向かわなかった。代わりにタバコを取り出して、口にくわえる。
「行かないの?」
「急ぐこともないじゃない」
顔を少し上向きにしてタバコを吸い続ける。眼には涙を溜めている。
「そうだね」
相槌を打ってみたが、彼女が行くことをためらっているのが辛かった。そんな姿をいつまでも見ていたくない。ぼくと長く一緒にいてもどうにもならないよ、と心の中で呟いてみる。元気づける言葉すら掛けられない。ただ時間が経つにつれ、心が重くなっていくだけだ。
ミントの匂いのする煙から、職場の休憩室から見える夜景を思い出した。
「本当は行きたくないの。なんだか負けたみたいじゃない」
彼女は突然、震えた声を出した。
つづく
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リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。