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(小説)白い世界を見おろす深海魚 29章(広い地下に彷徨う)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎は、ライター職として活躍している。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーンビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を受ける。

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 石川のやったことは入社一年目がよくやる単純なミスだった。レストランでいえば、お得意様がいつも注文する料理を間違えるようなものだろう。きっと彼は〝みせしめ〟なのだ。川田部長は彼に向けて怒鳴り声をあげることで、部署全体の緊張をさらに引き締めようとしている。

 石川は入社したときから川田部長に怒鳴られていた。最初は、態度が悪い。声が小さい。最近は簡単な計算を間違える、手際が悪くて営業先からクレームが来る、といったものだ。昨年の“みせしめ”は、ぼくだった。怒鳴られながら、ホッチキスやらボールペンやら当たってもケガをしない手の届く範囲の物を投げつけられた。
 最近は月一回程度で済んでいるが、去年の今頃は石川のように……いや、もっと激しい怒鳴り声を浴びせられていた。胃が痛くなって食事のニオイを嗅ぐ度に吐き気におそわれたり、嫌な夢に何度も起こされる夜を過ごしてきた。そのおかげで入社当時よりも体重が五キロも減った。多分、石川もあのときのぼくと同じような辛さを味わっているのだろう。筋肉痛の足を引きずりながら同情した。

 すべての訪問先を回り終え、ぼくは大手町駅を歩いていた。ここは地下にいくつもの通路が交差していて、歩く度に中学生時代に熱中したロールプレイング・ゲームのダンジョンを思い出させる。路線がいくつか集中し、さらに他の駅とつながっている。どこを向いても同じような白いタイルを敷き詰めた通路が広がっていて、迷いやすい。目的の電車に乗ることができないまま歩き続けていると、東京駅に着いてしまったこともある。田舎者に優しくない駅だ。

 入社したての頃は、クライアント先に届ける原稿を抱えたまま、一時間近くこの駅をさまよったことがある。急ぎで届けなければならない原稿だったため、上司にこっぴどく叱られた。

 名を馳せた大手企業が、この街には集まっている。

 おかげで、今では五百回近くこの駅で乗り降りしているから、もう目をつぶっていても目的地までたどり着くことができる。

 時刻は夜の八時を回っていた。早足で帰路へ着くサラリーマンの流れとは逆方向に、進んでいた。数万の固い靴音に囲まれながら、これからオフィスへ戻ってやらなければならない仕事を考える。営業報告書を作成して、企画書の資料を集める。印刷業者との台割についての打ち合わせもある。
 壁に貼られている広告やコンコースに露店を出しているシュークリーム屋に目もくれず、ひたすら歩くサラリーマン達を見て

 たまにはあんた達と同じ時間に帰ってみたいよ

 と頭のなかだけで愚痴をこぼした。
 “悪い知らせ”を持って帰らなければならないので、気が重い。最後に回ったクライアント先の担当者から、広報物の制作許可が降りるのは最低でも金曜日の朝だ……と言われた。許可を出す広報の責任者がインフルエンザのため、最低でも四日間は休まなければならなくなったらしい。
 それを聞かされ、両肩にどっしりと疲労が覆い被さる。また、ぼく達の会社が苦しむ要素ができてしまった。仕事量が多いため、発行するかどうか分からないものを制作しているヒマはない。締め切りは月曜日。金曜日の朝から始めたのでは時間が足りない。なんとか締め切りを延ばしてもらえないかと頼んだが、それは頑として断られた。つまり制作が決まれば、ぼく達は殺人的な過密スケジュールで動かなければならないことになる。

 顧客の要求は、たとえ理不尽でも無謀でも受け止める。それが小さな請負会社の弱いところだ。

 今週の土日も潰れたな……。制作部の人達の疲れた顔を思い出し、ため息をつく。以前は休日が潰されると露骨に嫌な顔をする社員もいた。特に家族を持った父親。

「去年産まれたばかりの子どもがいるんだけどね。もう何日も寝顔しかみていないよ……。起きているときに会ったのはいつだっけ? 小さいから、もう俺のことなんて忘れてしまっているかもな」

 2ヶ月前に辞めていった社員は、自分が吐き出した皮肉に苦笑していた。

 だが、最近では余裕のないスケジュールに誰も文句を言わなくなった。諦めがあるのだろう。どこの会社も余裕がなくなっているためか広報物に対する予算が減ってきている。営業に行くと、たまに契約の破棄さえ匂わされることもある。ワガママを言っていられない状況になっているのだ。小さな編集プロダクションやデザイン会社は次々と潰れているなかで、仕事があり、生きていけることさえできれば満足の世の中に変化してきている。

つづく

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#創作大賞2023

リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。