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【小説】白い世界を見おろす深海魚 43章 (値札の貼付 そして剥離)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎は、ライター職として活躍している。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーンビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を受ける。

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43

 駅へ戻る道。夜の闇に抵抗するかのように、商店は強い光を放っていた。居酒屋から発せられたネオンが、歩道を歩く親子を照らしていた。

 冷たい風がミユの描いた深海から、あらゆる人工的な光と雑音が入り混じった現実へと引き上げる。金田さんから聞かされたル・プランの計画なんて、どうでもよかった。

 ただ、あの空間が古ぼけた通りと一緒に朽ちていくのが惜しいような気がした。

「今日は来てくれて、ありがとう。無理やり連れまわして迷惑だった……よね?」

 ミユのネオンを吸い込んだ瞳が、ぼくに向けられる。相手に気を使っている言葉というよりは、自分の採った行動は他人に迷惑をかけるものかどうか、確認しているように聞こえた。

 首を振ろうか、どうしようか悩んだ。

「また、連絡するよ」

 質問の答えを得られなかった彼女は戸惑いの表情を浮かべながら、うなずいた。

 二週間の休暇の後、塩崎さんは勤務を再開した。
「ご迷惑をおかけしました」と、各部署へ詫びに回る彼女は以前のようなやつれた顔ではなかった。すっかり顔の一部となっていた目の下の黒い影も消えている。疲労が滲んだ顔色を隠す必要もなくなったせいか化粧は薄く、肌の柔らかい赤みがオフィスの照明を優しく反射させていた。

 復帰はしてもキャスト・レオの取材ライターは、上山から代わることはなかった。キャスト・レオだけではない。その他に担当していた、ほとんどの仕事を別のライターが引き受けることになった。

「私、身体壊しちゃったじゃない。もう無理しちゃダメだってお医者さんに言われたから、仕事量を減らしてもらったの」

 昼休みにオフィスビル内にある食堂で、その訳を話してくれた。

「毎日、定時帰りで大分楽になったわ。代わりに裁量手当は付かないけどね」と、うどんをすする。

 ぼく達の会社では残業しようがしまいが、ある程度の手当が付く。裁量労働制といわれるシステムで仕事が早い社員は定時に帰っても、特定の時間外賃金が貰える仕組みになっている。逆に、仕事が遅い人は残業をいくらしようとも、仕事の早い人と同じように一定の金額しか貰えない。つまり『みなし残業』となり、仕事の遅い人だけが損をすることになる。

 会社はそれを“完全実力主義制度”と謳っている。しかし、実際は人員不足とノルマの多さで、99パーセントの社員は定められた時間を大幅に超えて働かされている。

 それに、もし早く帰れても他の社員に冷たい眼で見られてしまう社内文化もある。入社したばかりの頃、ぼくは先輩社員より早く仕事が終わり「お先に失礼しまーす」と席を立つと、机を蹴られたことがある。

「新人のクセに、他の先輩の仕事を手伝わずに帰る気か?」と怒鳴られて、大量の請求書の作成を翌朝までやらされた。初めての徹夜作業。窓から差し込む朝陽を見たとき、この会社を選んでしまった悔しさと悲しさで涙が出そうになった。結局は『裁量労働制』といっても、過剰労働を正当化するための固辞付けにしかならない。

 塩崎さんは、その呪縛から解放されたのだ。この僅かな手当の代わりに午後6時に、帰り支度ができる権利を得たのだ。

「いいなぁ。そんなことしてもらえるのか……」

 ぼくが感心していると、塩崎さんはため息をついた。

「でも、出世の道は完全に閉ざされたわ。もう雑用程度の記事しか書かせてもらえないし。それにね、給料が減ったの」と、指を三本立てて向けてきた。

「手取りが13万円程度しか貰えないのよ。どうやって生活していけばいいのか……。アパートの家賃を払ったら、半分は消えちゃうじゃない」

 その話を聞いて、うらやましい……という想いが半減した。代わりに同情心が芽生える。

「でも、まぁ……身体が大事だからね。今まで、無理してきたんだろ?」

 彼女は箸を置いてうなずいた。辛い日々を思い出したのか、目が潤んでいく。

「ごめんね。私がこんなのだから、安田君にも迷惑かけちゃうね」と、急にしおらしくなる。

 こんなとき、どうすればいいんだ? 元気づける言葉でも掛けてやるのか? ぼくは「別に……そんなことないよ」と、わざと大きな音を立てて味気ない漬け物をかじった。

 ともかく彼女は身体に無理をさせない仕事環境を手に入れた。午後11時のオフィスを小走りで移動する塩崎さんは、もう見られない。

 ゆとりのある生活と出世への道。どっちが大切だろうか。その二つを天秤にかけてみたが、すぐに考えることを止めた。ぼくには、どちらも得られそうにないから。

つづく

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#創作大賞2023



リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。