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【小説】白い世界を見おろす深海魚 53章 (ビニールの向こう側)

【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業から広報誌を作成する依頼を高額で受ける。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田は理不尽と欲望に満ちた社会での自分の立ち位置を模索する。
塩崎は身体と心の不調を理由に会社を辞め、クライアント先であった企業のマルチビジネスの会員となっていた。

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53


 最初は喉の調子が悪い程度だった。
 つばを飲み込むと喉の奥がザラつく程度の微かな痛み。だから、気にもせずにそのまま仕事を続けていた。そのうち、ポットからこぼれ落ちる湯のような鼻水が出るようになり、夕方には頭がぼんやりしてきた。額に手を当てると長時間起動させた精密機器のような熱さ。まるで自分の体の一部ではないようだった。
 栄養ドリンクと風邪薬を飲んでも、思考回路は鈍く、時折起こる視界の揺らぎは抑えられなかった。

 今週中に作らなければならない企画書の作成を中断した。今日は、もう帰って眠ろう。明日の朝、早めに出社すれば締め切りまでには間に合う。パソコンのデスクトップの端に表示されている時計は『19:00』と表示されていた。いつもなら、これからが踏ん張りどころなんだけど。
 カバンを持って早々に会社を出た。別に悪いことをしているわけでもないのに、残業をしている周囲の社員に引け目を感じる。
 アパートの最寄りの駅に着く。繁華街にある肉屋や書店は、まだ営業していた。いつもなら帰宅する頃には、ほとんどの店のシャッターが閉まっている。だから看板や店内から強い光を放つ商店街は新鮮だった。高校生、主婦、年寄り。帰宅途中のビジネスマンもいる。彼らは終電後に早足で帰る人間よりも、穏やかな表情に見える。
 ドラッグストア店員の客寄せの声、不二家の店頭に置かれているスピーカーからは『ジングル・ベル』が流れている。道の真ん中で膝をついて泣く子ども。叱る母親。顔を赤らめ、千鳥足で自らの存在を主張するように大声で笑い合う学生集団。
 この騒がしい光景を熱でぼんやりした頭で眺めていると、自分だけが薄いビニール一枚隔て、別の世界にいるような気がした。これだけ街はにぎわっているのに、その光景の“一部”にもなれない自分に腹立たしさがあった。これも自分が普段、夜遅くにしか帰れないせいだと思って。熱のせいだろうか。ちょっとしたことで気分が滅入る。
 アパートの近くのコンビニエンスストアでクリームパンとコーヒー牛乳、それとおにぎりを買った。食欲なんかなかった。アパートに辿りつくとクリームパンを一口齧った。味がしない。こたつの上に放り投げて、早々に布団の中に潜り込んだ。外の公園から聞こえる若い男女のハシャギ声が、やけに耳障りだった。
 寒い……身体が震え、梵鐘の音のような頭痛が規則的にやってくる。布団に潜ると、熱臭さがしてくるような気がした。その臭いに妙に懐かしい安心感を憶える。幼い頃、寝付くまで頭をなでてくれた今よりシワの少ない母親を思い出しながら眠りについた。

つづく

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リアルだけど、どこか物語のような文章。一方で経営者を中心としたインタビュー•店舗や商品紹介の記事も生業として書いています。ライター・脚本家としての経験あります。少しでも「いいな」と思ってくださったは、お声がけいただければ幸いです。