悲しみから目をそらそうとしているのか?悲しみを越えた境地にいるのか?さえわからない日々の中で、頂いている命がくっきりと浮かび上がる。命の揺らめき、ざわめきが、まるで、音のない漣(さざなみ)のように感じられる。儚さの中にある力強さ、力強さの中にある儚さ、命の波が、うごめいている。
諸事情により詳しくは書けないが、先日、私は命拾いする出来事に見舞われた。それ以降、なんだかソワソワしている自分がいる。命の使い方について、ずっと真剣に考えているからだろう。しかし、真剣に考えすぎた結果、悲しみと喪失感の感情までも膨らませてしまったかもしれない。シンプルに生きたい。
またひとり 人が逝った つながりが近く 強い人ほど その悲しみは深く 大きいだろう 私には 気休め程度の言葉を かけることくらいしかできない それでも、そんな人間にも存在意義はある 皆が悲しみに沈んでいるとき、 未来を見つめる人間がいなければ 前に進んではいけないのだから
「何があっても自殺はダメだ、 生きていれば 良いことがある」 無責任な言葉だと思っていた 本人には生きることが どれほど苦しいのかを理解しているのか、と だが、遺される家族の悲しみを経験すると 考えさせるものがあると知った なんとか 生きながらの解決策を探せないものか…
医者が患者の家族に状況を説明する際、 心遣いのバイアスはかけるものなのだろうか 「意識が戻る可能性は限りなく低い」 と言われたら、 そのままの意味でしかないのだろうか 「最悪も覚悟してもらうため…」 くらいの意図で、 大げさに言ったりしてないかな あまりにも受け入れ難すぎる