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【質問回答】自分の感情に囚われすぎずに楽になるには、自分をどう観察すればいい?

昨晩、ここヴェネツィアには嵐がやってきた。

風と雨が叩きつけられ、雷が轟音を鳴らした。外壁に横殴りに衝突した雨水が、飛沫となって窓から室内に飛び散り始める。両開きの窓がまるで無言の怒りをぶつけるかのように壁にむかって滅茶苦茶な平手打ちを始め、家の外ではバケツのようなものが吹っ飛ばされてあちこちにぶつかりながら離れていく。これらの恐ろしげでワクワクする音を聴きながら、急いで窓を閉めた。

私はなぜ嵐にワクワクしたのだろう。なぜこれに、活力を得るのだろう。
私は自分のことをまだまだ知らない。知らないのだから、知ったかぶりをしてはならない。私は自分のことを、未知の生物だと思った。私にとって私というのは、前人未到の領域だ。謎である。生きるということは、このミステリーに向かうことなのかもしれない。

そんな、自分が何者なのかを知りもしない私ですが、本日はこちらのご質問にお答えしますよ。

自分のことを書くとしたら、自分の感情だけに着目しなくてよいのだと思いますよ。たとえば、「わからないことがあってモヤモヤして嫌な気分だ」と書いたら、「今はそのモヤモヤを解決しないといけないと思っている」「解決できなくてイライラして立ち上がった」「甘いものが食べたくなった」などと、行動や思考も観察して、書き出す方法もありますね。

でも私が客観視をするときは、たとえばそのモヤモヤしている自分や、立ち上がった自分や、甘いものを食べたがっている自分などをただ眺めながらも、「それを眺めた自分が感じていること」を観るようにしています。

モヤモヤしているあなたを、他者を見る時と同じように、ちょっと遠くから見てみる。見てどう思いますか。あなたはその人物を見て、何を感じますか。

その時に、たとえば、「私は机に向かって座っていて、モヤモヤを解決できなくてなんだか浮かない顔をしている。解決するためのアイデアが浮かばないから、なんとなく自分自身を責めるような気持ちになっている。のどが渇いたと気がついて、今度は立っていって飲み物を探している。ああ、この私は、それなりにこの世に対応しながら一生懸命に生きている。生きるのは大変で、自分がなんだか健気でかわいそうな感じがする…」

このように見えてきたら、その自分を、もっと遠く遠くから見てみてください。他のたくさんの人に混じって、地球上で小さく動きながら生きている生命体。それがあなたです。

海があり、山脈があり、木が生えている地上で、なにかにモヤモヤしたり、次の日には美味しいものを食べて気分を良くしたりしながら、日々を生きている。まるで微生物のように小さなあなた。そのあなたを見て、あなたは何を感じますか。

私はそんな自分を見て、好きにすればいいと思います。生命が終わるまで、大変だけどまぁ、落ち着いて、パニックにならずに、生きてくれやと思います。小さく分離した、苦の中で生きる自分らに憐れみを感じます。自分だろうと、他の人だろうともう、そのミジンコのように小さな生命に対して、ただ生命をまっとうするのを黙って観ているしかないという気になります。責める気もなければ、なにかをしなくてはならないというタスクも感じられません。馬鹿なことにこだわる自分を、真にアホで愚かで哀れだなと思います。自分という一生命体のことばかり考えていないで、他者とどう関わったのか、瞬間瞬間の生きた感覚を味わっているかどうか、そのほうが大切なように思えます。死ぬ間際にその人生をどう思うかのほうが、大切なように思えます。ただまぁね、せっかくの寿命なのだし、できるかぎりその環境にありがたみを持って、できるかぎり他者を助けて、くだらないことにしがみついていないで、おおらかに穏やかに、より善く生きてくれや。

自分をこのように観たときに、自分の感情だけに着目して、感情だけを重視しているような感じがしますか。自分を過度に重要視して、自身の感情へのこだわりを、強めているように感じられますか。

きっとそれとは反対で、言葉は悪く感じられるかもしれませんが、自分のことがどうでも良いように感じられてくると思います。握りしめていた自意識が薄れて、自分を手放していくように感じられると思います。他の人と自分との差がなくなって、それらは同じようなものだと思えます。個性がどうとか、自分らしく生きるかどうかとかいう、よく世の中で言われること…自意識が強く働いているときに気にするようなことが、気にならなくなります。世の中の多くの人が大切だと思っていることが、まったくのバカらしい、執着の産物だということがわかります。

人の意識というのは、このようにできているのですね。

さらにもっともっともっと何光年も遠くから見ると、あなたはこの今のあなたを見て、どんな感じがしますか。

過去世のように見えますか。
一人間だったことが懐かしいですか。
なんの価値もない、くだらないことに見えますか。

今の瞬間、あなたはより良く生きたいと思って、自分を観察するうまい方法はないかと試行錯誤している。悲しみを分析するために、感情の書き方を変えればいいのではないかと思っている。そのことを、あなたはどう思いますか。いい意味でも悪い意味でもなく、ただ単に、それひとつのことは、命から見ればある意味どうでもいいことなのではないでしょうか。遠い遠い星の彼方から見れば、その書き出し方というのは、あなた自身にとってさほど重要なことではないのです。

そんなことよりも、今この瞬間、いい気分になれよ!と感じませんか。
幻に囚われないで、あなたはあなたの本当の喜びに向かえばいいのです。
そのほうが、その生命体にとって良いことのように見えませんか。

刺激的でなくていいし、祝うようなことでなくていいし、誰にも褒められなくていいし、他者に迷惑をかけるという大胆さに偏らなくていい。なにかを完成させなくてもいいし、個性的でなくてもいいし、使命を果たしている感じがしなくてもいい。ただまじまじと、自分に起こっていることを生々しく体験すればいい。

すると皮肉なことですが、その時にこそ、感情に囚われすぎず、かといって感情を無視しているわけでもなく、バランスが取れるのですね。

どうせなら、素晴らしく生きて。
社会に褒められるかどうかよりももっと、静かに輝く方法で。
その星の上で、その星にある物や生命たちとともに、幸福を紡ぎ出して。
感じて、味わって、磨いて、そうやって生ききって、死ぬときに死にな。

自分を眺めることで、そんな感覚に邂逅することができます。

私たちは、悲しいときは悲しい。嬉しいときは嬉しい。
さあ、あなたというその生命体に、あなたはなにを味わってほしいですか。

こんな瞑想をしてみることを、おすすめいたします。
参考になるところがありますように。

それでは、またね。

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)