やまさきまりこ / 山﨑 真理子

M5/QUANTA代表。変容の証人・観察者であり、リアル実践者。「この世で遊び、表現す…

やまさきまりこ / 山﨑 真理子

M5/QUANTA代表。変容の証人・観察者であり、リアル実践者。「この世で遊び、表現する」「渦(vortex)という生き方」 フランス生まれ。出版社に編集者として10年間在籍後、独立。2014年M5起業、2019年QUANTA創立。 https://m5tokyo.com/

最近の記事

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エネルギー循環のための器、ありますか?

ちょうど1年ほど前に書いた記事(『インボイス制度から感じること』)でも触れたように、これからの風の時代では私たちはひとりひとりが「消費者/taker」から「生産者/giver」になるのだと感じています。ひとりひとりが自立し、自分らしい生き方を叶えていっていい豊かな時代。 土の時代では、お金というエネルギーの循環を効率よくするために誰もが銀行口座をもっていたように、風の時代では誰もがメディア(オウンドメディア)を運営しているかもしれない時代。そしてSNSを通して横断状に繋がり

    • 誰もが立ち返る「母」との関係性

      どこからどう描写していいのかわからず、一段落書いては消して、を繰り返していました。 私たちは誰もが母の胎内で数ヶ月間を過ごし、そこで胎児として充分に育まれ、そしてこの世に生を受けるに至っています。そして胎児の頃から多大な影響を受け、その後の人生の基盤を作ってきています(そんな影響を受けることさえ、自分の魂が事細かに選んできているわけですが)。母との関係性は、私たちが「自分を知る」「自分に還る」という悟りのプロセスにおいて、誰もが必ず立ち返ることになるテーマであると感じていま

      • 私たちは現実を見たいように見ている

        私たちは見たいと欲する現実を見ていきます。そこにどんな意味をつけるのかは、自分次第だからです。 * 魂が意図する方向性、ベクトルというものがあります。絶えず、そこへ向かい続けているという流れ。それは私たちが今世、さまざまな出来事や体験を通じて学びたいと思っていること、体験したいと思っていること。それを学ぶために、わざわざいろいろな出来事を起こしているのです。 その仕組みについて理解ができたとき、私たちは独りよがりのパラダイムから抜け出すことができます。自分自身を不運や病

        • 目に見えない有機的な居場所

          2011年の冬、心身共にやつれていた私は療養のために旅に出た。友人が住む、フランス領ポリネシアにあるボラボラ島へ。現地で子育てをする友人と共に保育園を訪れたり、地元の人たちと食事をとったり、日本とはまったく異なる生活習慣のなかで繰り広げられる、普遍的な日常に触れて過ごした。 日本における「当たり前」が大した意味をもたないような土地。「家」と「外」の境というものが曖昧で、ドア、トイレやシャワーの仕切りなどもあるようなないような空間。境界線がとても曖昧な土地では、子育ては近所の

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        エネルギー循環のための器、ありますか?

          遠い遠い、星の彼方の転生記憶

          小さい頃、発熱でうなされると決まってみていた夢があります。それは宇宙のど真ん中で「永遠を知っている」という感覚のなか、ずっと小さな乗り物にのって、ぐるぐると回り続けている映像。当時好きだった東京ディズニーランドの「スペース・マウンテン」のなかのようなのだけれど、ひとりしか入れない小さなところに入っている。熱を出すと決まってその映像がみえるのが小さい頃はとにかく怖くて怖くて、あるとき(と言っても既に中1の頃)は、夢遊病者のように部屋から飛び出し、家族のいる部屋へ実際に逃げ出した

          遠い遠い、星の彼方の転生記憶

          デトックスは穏やかに、ご自愛バイブスで

          蠍座の真髄に触れるような禊のシーズンなのでしょうか。体調を崩す方が多いようです。発熱も身体がデトックスするよ、という合図。下痢も嘔吐も、身体から不要になった古い毒素を排出しようとしている証拠。 ときに身体からの声は、私たちに必要なシフトを促してくれます。それは今まで見てこなかった世界線にあることかもしれません。これから生きていくときに、もう少し軽やかに生きやすくなれるよう、身体が全力でサポートしてくれているのかもしれません。 それでも渦中にいるとどうしても目の前のツラい現

          デトックスは穏やかに、ご自愛バイブスで

          移ろいゆく「心地よい距離感」を許すとは

          このタイトル画像を選ぶのに40〜50分も時間をかけてしまった。木が互いのスペースを保ちながら共存している。そんな1枚を探すのにアルバムを遡りすぎて、思い出迷子になるところでした。 私はモノを覚えるのも実行するのも早いけれど忘れるのも早い。昔のことを色々覚えているほど記憶力のキャパシティがないようで、執筆にあたり、過去のエピソードを思い出すのがまぁまぁ大変。そんなとき今まで撮ってきた写真は自分自身の記憶を辿る貴重な手がかり。ということもあり、今日は過去の写真がたくさん入ってい

          移ろいゆく「心地よい距離感」を許すとは

          目に見えない“制限”を外すとき

          自分のなかに迎え入れていないもの。じつは無数にあるのでは、と日々感じています。だから常日頃から「じつはアリなんじゃない?」という視点であらゆることに接することにしています。これはおそらく思春期を海外という日本の集合無意識が通用しない土地で過ごしたことによる影響も多々あり、自分のなかにある癖づいている部分かもしれません。それはいずれ、常に中庸である、という意識といつの間にか密接に関連しているなぁと気づくのですが。あ、そしてもちろん「じつはアリなんじゃない?」スタンスをもってして

          目に見えない“制限”を外すとき

          「嫌い・憎い・許せない」の裏にあるもの

          自分自身との向き合いという過程には、大きく分けると2種類のフェーズがあるように感じています。ひとつは、前半で訪れる自分自身への深い癒しや許しとなるようなフェーズ。そしてもうひとつは、後半に訪れる、というより、生涯をかけて定期的に“イマココ”の自分と向き合い、その都度、調律していくことになる、自分自身の魂の願いを軽やかに叶えるためにコンフォートゾーンを広げ、さまざまなことが「可能である」ということを体験していくためのフェーズ。それぞれの向き合いにおける性質が異なるため、そのため

          「嫌い・憎い・許せない」の裏にあるもの

          エネルギーの感覚が開くとき

          私たちがエネルギーレベルで「開いていく」ことを感じていくなかで、外と内の境界線が曖昧になっていくことを感じることも少なくないと感じています。それは、受容のプロセスにおけるひとつの通過点のようなものかもしれません。外と内というエネルギーの領域はとても繊細で曖昧なグラデーションで成り立っています。 2018年以降、私のなかで「感覚的に開いていく」ということが向き合いのなかで深まるにつれ、外の情報に敏感になりすぎて「すべてが入ってきてしまう」という感覚になった時期がありました。そ

          エネルギーの感覚が開くとき

          愛と喜びに忠実に生きていますか?

          冒頭から逸れています。 「遊び」とか「余白」について書こうかなぁと思って、テーマに沿った写真をアルバムを遡って探していると2022年1月に参加した井出武尊さんの「大人のお絵描き教室」で制作した作品の写真が幾つか出てきました。タイトル画像に使おうと選んだ作品、じつはテーマが「心臓|heart」と名づけていた絵(赤いところが心臓で、そこを起点に様々な感情が湧き出るイメージで描きました)。あ、やはり、まずは「心臓」について書くのか、と。 * 一昨日、私は通称“魂のジム”とも呼ば

          愛と喜びに忠実に生きていますか?

          「嫌われたくなかったーvortex講ー」

          自分のことを「中身がないなぁ。鏡みたいだなぁ」と感じ始めたのは、いつの頃からだったか。ことあるごとに感じていたのかもしれません。 「誰とでも仲良くなれるタイプだよね」 どこかのグループだけに属する、ということをせず、けれど、どこのグループとも交流がある。大学のキャンパス内で広く浅い社交をしている私をみて、授業の移動中に友人がふと私のことを語った。芯のある軸の通った知性を感じる友人のそんな言葉に対して、促されるようにふと湧き出たのが「私、鏡なだけなんだよね」という返事でした。

          「嫌われたくなかったーvortex講ー」

          留まるところを知らず、若返り続ける

          昨日は外苑前にある「FLAT BASE」にてyujiさん初となるビジネスに特化した星読み講座が開催されました。QUANTAの年間リトリートや各種リトリートプログラムに参加されている方々もちらほらいらっしゃって、皆さんが会うたびに若返っているのを再び目にしまして。今日のタイトルの通りなのですが、改めて、潜在意識の不要になった思い込みを手放すだけで、留まるところを知らずに若返り続けるなぁ!と嬉しい気持ちになりました。 いろんなことを自分へ許していき、自分に優しくなっていく。それ

          留まるところを知らず、若返り続ける

          お金というエネルギーを自分のために使う練習

          私は長らく自分のためにお金を使うことが苦手でした。 厳密に言うと「将来何かしらに役立ちそう!」という私の身になる勉強や人生の糧となるような経験や学びにはお金を使えるけれど、それ以外の「ただ欲しい」「ただ嬉しい」「ただ楽しい」「ただ気分があがる」という純粋な私自身の欲求を満たすだけのものにお金というエネルギーを使うのが下手でした。 これは『助けたいというエネルギーのトラップ』の記事でも書きましたが、長らく私自身が自己犠牲的なエネルギーの使い方をしてきたことによるものでした。

          お金というエネルギーを自分のために使う練習

          人間の身体は神秘の入口 | Craniosacral Biodynamicsとの出合い

          2020年年明け。私はとあるFacebookの投稿で、友人のひとつの記事に目が留まります。それは「クラニオセイクラル」という、当時の私にとって謎めいていたセッションのモニター募集。 そして脳内がタイムトリップします。ときは2019年4月末。私は娘の幼稚園友達の自邸で行われるバースデーパーティに向かうため、藤沢市内まで車を走らせていました。そしてとある路地に入ったとき、一枚のポスターとそこに書かれた文字を目にして「あ、この名前はどこかで聞いていて今まで忘れていたけれど、思い出

          人間の身体は神秘の入口 | Craniosacral Biodynamicsとの出合い

          創造性を発揮して、望んだ形で豊かになる責任

          ある意味、依存の多い時代でした。 国、社会、会社、学校などに過保護に守られながら、私たちは制限のなかで生きることが当たり前でした。そのなかでは自分という個性をどう会社や社会で活用できるのか。そこで求められる特性を磨き、その枠組みでの自分の活かし方を考え、社会性を磨いてきたのかもしれない。勉強さえすれば、社会性を磨きさえすれば、就職さえすれば、求められた役割を演じさえすれば、日々の生活は担保される。その積み重ねが評価されていく。周りへの期待も多かったのかもしれません。 そんな

          創造性を発揮して、望んだ形で豊かになる責任