本能寺の変1582 重要 ◎第41話 信長の志向 志向の相違 副将軍辞退 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第41話
信長の志向 志向の相違 副将軍辞退
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*以下は、第41話から重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
◎これが、信長の志向するところ。
◎信長は、義昭の要請を断った。
「御斟酌の旨」
信長の配慮である。
然(しかり)りと雖(いえど)も、
此の時に於いては、御斟酌(しんしゃく)の旨、仰せ出だされ、
御請けこれなし。
希代の御存分之由、都鄙(とひ)の上下これに感じ申し侯。
◎信長と義昭の間には、志向の相違があった。
将軍と戦国大名。
個性の強い二人。
生き方・考え方・進むべき方向が異なっていた。
初めは、誰も、そのことに気づかなかった。
だが、それは、次第に大きくなっていく。
◎光秀は、これらを場末で見ていた。
藤孝は、重役。
光秀は、軽輩。
二人の間には、大きな身分の差があった。
舞台は、進行する。
さて、わき能高砂。
観世左近太夫、今春大太夫、観世小次郎。
大つゞみ、大蔵二介。
小鼓、観世彦右衛門。
笛ちやうあひ。
太鼓、観世又三郎。
再び、使者、細川藤孝。
二献の御酌、大館伊予守。
此の時、右の三使にて再往御使これあり。
信長、御前へ。
信長、御前へ御祗侯。
忝(かたじけな)くも三献の上、公儀御酌にて御盃を下され、
御鷹・御腹巻御拝領。
御面目の次第これに過ぐべからず。
二番、八島。
大つゝみ、深谷長介。
小鼓、幸五郎二郎。
三献御酌、一色式部少輔。
三番、定家。
四番、道成寺。
信長の御鼓御所望侯。
然りと雖も、辞止(じたい)申さる。
太鼓、大蔵二介。
小鼓、観世彦右衛門。
笛、伊藤宗十郎。
五番、呉羽。
御能過ぎ侯て、一座の者、田楽かつらなどまで、
信長より、御引手物下さる。
(『信長公記』)
こちらは、山科言継の記録。
廿三日、己亥(つちのとい)、天晴、
今日、織田弾正忠武家に召され、御能五番これ有りと云々、
大夫、観世と云々、
(「言継卿記」)
⇒ 次へつづく
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