本能寺の変1582 第196話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第196話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛
◎信長は、柴田勝家に疑心を抱いていた。
それ故、目付をつけた。
「柴田目付として」
監視役である。
それも、一人ではない。
三人。
これが信長の人事である。
◎ここが重要ポイント!!
要注意ヶ所!!
越前国の儀、多分、柴田覚悟せしめ侯。
両三人をば、柴田目付として、両郡申しつけ置くの条、
善悪をば、柴田かたより告げ越すべく侯。
互ひに、磨き合ひ侯様に、分別専一に侯。
用捨においては、曲事たるべきものなり。
天正三年九月 日
不破河内守(光治)殿
佐々内蔵助(成政)殿
前田又左衛門(利家)殿
かくの如く仰せつけられ、
(『信長公記』)
不破光治は、元美濃斎藤氏の家臣。
生年不詳。
子に直光がいる。
永禄十年1567頃、信長に従ったらしい。
佐々成政・前田利家と同クラスの中堅部将。
◎信長は、猜疑心が強い。
時は、戦国時代。
それ故、ここまで生き延びた。
◎ここが重要ポイント!!
要注意ヶ所!!
◎信長は、重臣といえども信用していない。
信じるのは、己ただ一人。
これが、当時の風潮だった。
◎ここが重要ポイント!!
要注意ヶ所!!
◎柴田勝家、然り。
信長は、勝家を信用していない。
柴田勝家には、前歴があった。
弟信勝の謀叛。
「あの時」、・・・・・。
勝家は、裏切った。
信長は、そのことを忘れない。
「決して」
心、許さず。
信長は、執念深いのである。
◎ここが重要ポイント!!
要注意ヶ所!!
【参照】13上総介信長 7弟、信勝の謀叛 小 108 109
【参照】15信長の台頭 1信勝謀殺 小 117 118
◎光秀、然り。
信長は、光秀を信用していない。
光秀は、新参者。
洞察力に優れていた。
「同じ穴の狢」
全てにおいて、抜け目がなかった。
「その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、
主君とその恩恵を利することをわきまえていた。」
「自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを
身に備えていた。」
「己を偽装するのに抜け目がなく」
「謀略を得意とし」
「忍耐力に富み」
「計略と策謀の達人であった。」
(『日本史』より抜粋)
◎ここが重要ポイント!!
要注意ヶ所!!
【参照】16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 小 191
◎光秀は、「計略と策謀の達人」だった。『日本史』
◎「時代の風潮」、重視すべし。
何しろ、人命が軽視され、人権など皆無に等しかった時代。
当時の風潮は、現在、我々が生きている時代のそれとは、まったく異なる
ものであった。
それを、混同するから、おかしくなる。
混同してはいけない、のである。
「時代の風潮」、重視すべし。
その様に思う。
◎ここが重要ポイント!!
要注意ヶ所!!
◎秀吉、同。
信長は、秀吉を信用していない。
秀吉は、そのことを十分に心得ていた。
そして、光秀を徹底的にマーク。
「同じ穴の狢」
頭の回転が異常に速いのである。
◎ここが重要ポイント!!
要注意ヶ所!!
以下を、よく見よ!
金ヶ崎の一件、
羽柴の姓について、
「藤吉郎さりとてはの者にて候」*、
手取川離脱の一件、
信長の五男秀勝を養子にしたこと、
播磨出陣、
・・・・・等々。
以上、数え上げれば、キリがない。
この男、「ただ者に、あらず」、なのである。
その、極めつけが、「中国大返し」だった。
*安国寺恵瓊の有名な言葉。「吉川家文書」
これらについては、後述する。
⇒ 次へつづく 第197話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛