見出し画像

本能寺の変1582 第118話 15信長の台頭 1信勝謀殺 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第118話 15信長の台頭 1信勝謀殺 

はじめに ←目次 ←前回 第117話 

信勝が再び謀叛を企てた。

 この年、永禄元年1558のこと。

  一、上総介殿信長公の御舎弟、勘十郎殿、
    龍泉寺*を城に御拵へなされ侯。
    上郡岩倉の織田伊勢守(織田信賢)と仰せ合はせられ、
    信長の御台所入(蔵入地)篠木*三郷、能き知行にて侯。
    是れを押領侯はんとの御巧みにて侯。


    *龍泉寺 愛知県名古屋市守山区竜泉寺1丁目902
    *篠木   同 春日井市篠木町

信勝と岩倉織田氏の関係が露見した。

 それも、以前から。
 「上郡岩倉の織田伊勢守と仰せ合はせられ」
 そして、その背後には斎藤義龍。

信勝は、斎藤義龍と通じていた。

 義龍は、信勝の心底を知り尽くしていた。
 信長の敵は、己の味方。
 動きが活発だった。

柴田勝家が信長へ報せた。

 勝家は、信勝の家臣。
 主君を裏切った。
 斯くして、秘事が漏れる。

  勘十郎殿御若衆に、津々木蔵人とてこれあり。
  御家中の覚えの侍どもは皆、津々木に付けられ候。
  勝ちに乗りて奢り、柴田権六を蔑如(べつじょ)に持て扱ひ候。

  柴田、無念に存じ、上総介殿へ、又御謀叛おぼしめし立つの由、
  申し上げられ候。

信長は、病を装った。

 苦悩の末の決断。

  是れより、信長、作病(つくりやまい)を御構へにて、
  一切、面(おもて)へ御出でなし。

信長は、信勝を殺害した。

 同十一月二日。
 信勝は、これに気づかず。
 見舞いに訪れた。

  御兄弟の儀に侯間、勘十郎殿御見舞然るべしと、
  御袋様並びに柴田権六異見申すに付きて、
  清洲へ御見舞に御出で。

  清洲北矢蔵天主次の間にて、


  弘治四年戊午(つちのえうま)霜月二日
  河尻・青貝に仰せ付けられ、御生害なされ侯。

勝家は、やがて越前を手に入れる。

 この時の手柄がもとになったという。

  此の忠節仕り侯に付きて、後に越前大国を柴田に仰せ付けられ侯。
                          (『信長公記』)


 ⇒ 次へつづく 第119話 15信長の台頭 2尾張統一 


この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?