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本能寺の変1582 第119話 15信長の台頭 2尾張統一 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第119話 15信長の台頭 2尾張統一 

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永禄二年(1559)

将軍義輝は、京にいた。

 五年前、天文二十二年1553。
 三好長慶の下剋上により、義輝は朽木へ追放された。

  【参照】13上総介信長 3三好長慶の下剋上 100   

 ところが、前年、永禄元年1558。
 和睦が成立。
 義輝は、五年ぶりに京に戻った。
 幕府の衰退。
 将軍は、傀儡にすぎない。
 目まぐるしい変化である。

 正月七日。
 年始の挨拶である。
 山科言継が祗候した。

  七日、庚辰(かのえたつ)、天晴、
  今日、武家(将軍義輝)へ御礼に参る、
  内蔵頭・薄等召し具し、
  供、大沢出羽守・同左衛門大夫・沢路備前守・同隼人佑・同孫七郎・
  同新四郎・小者両人等なり、
  午時、御対面なり、
                          (「言継卿記」)

三好長慶が上洛した。

 二月二日。
 芥川山城(大阪府高槻市)から、京へ。
 義興を同道した。

  二日、甲辰、天晴、天一天上、
  一、三好筑前守・同子孫次郎、摂州芥川より上洛と云々、
    当年、始、相国寺に寄宿と云々、
                          (「言継卿記」)

三好は、全盛期を迎えていた。

 長慶は、摂津を本拠に、その版図を拡大した。
 山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨の一部。
 これが、この頃の勢力範囲。
 そして今、将軍義輝は掌中に有り。
 正に、「我が世の春」。
 その、始まりである。

三好義興は、長慶の後継者。

 長慶の嫡男。
 幼名、孫次郎。
 天文十一年(1542)の生れ。
 永禄三年1560、家督を継ぐ。
 永禄六年1563、病死。

三好四兄弟。

長慶は、有力な弟たちに支えられていた。

 三好義賢(実休)
  三好元長(長慶の父)の二男。
  すぐ下の弟である。
  阿波の三好氏、当主。
  子に、三好長治・十河存保がいる。
  大永六~七年(1526~27)の生れ。
  天文二十二年1553、阿波の守護、細川持隆を討つ。
  茶の湯に通じていた。
  永禄五年1562、討死。

  【参照】13上総介信長 2富田聖徳寺 97   三好義賢の下剋上。

 安宅冬康
  
三好元長の三男。
  生年不詳。
  幼くして、安宅氏の養子となる。
  淡路島水軍を率いた。
  永禄七年1564、長慶に殺害される。
  
子に、神太郎がいる。 

 十河一存
  
三好元長の四男。
  生年不詳。
  讃岐の国人、十河氏を継ぐ。
  後、和泉守護代松浦氏の後見人として岸和田城に入る。
  子に、三好義継・松浦万満(まんみつ)がいる。
  永禄四年1561、病死。

  なお、義継は、長慶に引き取られ、義興の死後、三好宗家を引き継ぐ
  ことになる。
  また、十河氏は、存保(三好実休の子)が継ぐ。
  ややこしい。

 以上、三好義興・三好実休・安宅冬康・十河一存、四人の没年に注目。

 これについては、後述する。


 ⇒ 次へつづく 第120話 15信長の台頭 2尾張統一 


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