本能寺の変1582 第117話 15信長の台頭 1信勝謀殺 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第117話 15信長の台頭 1信勝謀殺
永禄元年(1558)
二月二十八日、弘治より永禄に改元。
信長は、岩倉織田氏を攻めた。
七月十二日。
信長は、出陣した。
標的は、尾張上四郡守護代家。
当主は、織田伊勢守信賢。
父信安を追放し、跡目を奪い取った。
岩倉城に居す。
岩倉織田氏は、信勝と通じていた。
このことは、後でわかる。
背後に、斎藤義龍の影がちらつく。
義龍の手がのびていた。
信長にとっては、目障りな存在。
どうしても、片づけねばならぬ相手だった。
信長は、岩倉勢を城から誘い出した。
同日。
岩倉城*は、清洲*から北東へ凡そ二里(8km)。
信長は、大きく迂回して、その背後に回り込んだ。
城の北西、一里の地。
浮野*に、誘き出す。
一、七月十二日、清洲より岩倉へは三十町に過ぐべからず。
此の表、節所たるに依つて、三里上、岩倉の後へまはり、
足場の能(よ)き方より、浮野と云ふ所に、御人数備へられ、
足軽かけられ侯へば、
三千計り、うき々々(落ち着かない様子)と罷り出で、相支へ侯。
*清洲城 愛知県清須市朝日城屋敷1番地1
*岩倉城 同 岩倉市下本町城址
*浮野 同 一宮市千秋町浮野。
浮野合戦の事。
同日、昼。
戦いが始まった。
一、七月十二日、午(うま)の剋(12時頃)、
辰巳(東南)へ向つて切りかゝり、数剋相戦ひ追崩し、
爰(ここ)に、浅野と云ふ村に、林弥七郎と申す者、
隠れなき弓達者の仁体なり。
弓を持ち、罷り退き侯ところへ、
橋本一巴、鉄炮の名仁、渡し合ひ、連々の知音たるに依つて、
林弥七郎、一巴に詞をかけ侯。
たすけまじき(助けない)と、申され侯。
心得侯と申し侯て、
あいか(矢じりの一種)の四寸計りこれある根を、
しすけたる(仕込んだ)矢をはめて、立ちかへり侯て、
脇の下へふかぶかと射立て侯。
もとより、一巴も、ニツ玉をこみ入れたるつゝ(=鉄砲)を
(肩に)さしあてて、はなし侯へば、倒れ臥しけり。
然るところを、信長の御小姓衆、佐脇藤八、走り懸かり、
林が頸をうたんとするところを、居ながら大刀を抜き持ち、
佐脇藤八が左の肘を小手(籠手)くはへに(=ごとに)打ち落す。
かゝり向つて、終に頸(首)を取る。
林弥七郎、弓と太刀との働き、比類なき仕立なり。
信長は、清洲に帰陣した。
勝敗は、決した。
信長は、深追いせず。
兵を引いた。
岩倉城は、目と鼻の先にある。
なれど、これを攻めず。
さて、其の日(七月十二日)、清洲へ御人数打ち納れられ、
信長は、岩倉方に壊滅的な打撃を与えた。
翌日、首実検。
首数、千二百五十余。
岩倉方は、半数近くが討ち取られたことになる。
翌日、頸御実検。
究竟(くっきょう)の侍、頸かず千弐百五十余りあり。
(『信長公記』)
岩倉織田氏は、再起不能に陥った。
大敗北である。
これで、形勢が逆転した。
岩倉城は、沈みゆく泥船と化した。
最早、味方する者など誰もいない。
敵中に取り残された。
信長の名声は、大いに高まった。
信長は、家臣らに新知を分け与えた。
九月。
以下は、この頃、家臣らに発給された知行宛行状である。
何れも、岩倉織田氏の領内と思われる。
すでに、支配力を喪失していたのだろう。
扶助として、北方の内、興雲寺領拾貫文、堀之内公文名弐拾貫文、
都合三千疋申し付け候上は、相違有るべからざる者なり、
永禄元
九月十五日 信長(花押)
恒川中とのへ
(「生駒家宝簡集」)
扶助として、野々村大膳分の内、登立・竹藤両所弐拾貫文、
高田中務丞分、五日市庭弐拾貫文、
都合四拾貫文、申し付くる上は、相違有るべからざる者なり、
仍って、状、件の如し、
永禄元
九月十七日 信長(花押)
前野勝右衛門尉殿
(「大森洪太氏保管文書」)
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
⇒ 次へつづく 第118話 15信長の台頭 1信勝謀殺
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