本能寺の変1582 第116話 14信長の甲斐侵攻 5潮目の変化 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第116話 14信長の甲斐侵攻 5潮目の変化
⑧信長は、北条氏との友好関係を保持した。
北条氏政・氏直父子は恭順している。
「これで、よい」
なれど、油断せず。
相州氏政、駿河へ在陣にて、一廉(ひとかど)馳走候、
東八箇国の儀は勿論、異儀なく隙を明け(平和である)候、
信長は、視点を、東国から西国へ切り替えた。
これで、東国は片付いた。
否、今少し。
暫し、様子を窺う。
となれば、残すところは、西国のみ。
先ずは、中国毛利。
ならば、その時期は、・・・・・。
その様な段階に、突入した。
⑨信長は、信忠を現地に残した。
戦後処理のために。
しかし、長く置く気などさらさらない。
「暫しの間」
それで、十分。
そのための、滝川一益。
そして、帰陣を仄(ほの)めかした。
然らば、甲斐・信濃の事、城介を残し置き申し付くべき候、
信長は、不日帰国すべく候、
⑩信長の、老臣に対する姿勢である。
路次険難につき、来るに及ばず。
老人に対する配慮である。
爰許(ここもと)見廻り、無用に候、
年寄ども、呼び寄すべきと存じ候へども、
路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、罷り越すべからず候、
信長は、光秀を老人扱いしていない。
光秀には、行動力があった。
信長は、「まだまだ、使える」、と思っていた。
その様な年代だった。
事実、中国出陣命令が発せられるのは、この二ヶ月後。
天正十年五月十七日のこと。
光秀に、1000km超の大遠征が連続して命じられる。
相当の体力を要するであろう。
老人には、出来ぬこと。
光秀は、まだ、それが出来る年頃だった。
すなわち、高齢ではあるが、それ程までではなかった。
【参照】11光秀の年齢 5結論 77
⑪信長は、友閑に、世に喧伝するよう命じた。
友閑から、京の公家衆へ。
五畿内の諸将へ。
そして、備中の秀吉へ。
此の口の趣、安土へも未だ申し越さず候、
京都・五畿内並に羽柴藤吉郎方迄、残らず相触るべく候、
其の為に具(つぶさ)に染筆候也、
三月七日(十脱) 信長
宮内卿法印
(「武家事紀」「織田信長文書の研究」⑧~⑪/⑪)
そればかりに、あらず。
人の数だけ、口がある。
「風聞」
それは、瞬く間に、諸国の大小名へ伝播した。
「戦わずして勝つ」
これが、信長の戦略である。
「武田効果」
恐るべし。
最早、この国に、抗う者などいない。
【参照】10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 66
⇒ 次へつづく 第117話 15信長の台頭 1信勝謀殺
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?