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本能寺の変1582 第66話 10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第66話 10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 

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信忠は、諏訪から甲府に入った。

 同日。
 信忠の軍勢が甲府に侵攻した。

  三月七日、三位中将信忠卿、上の諏訪より甲府に至りて御入国。

信忠は、武田の一族・重臣を成敗した。

 彼らは、主家に殉ずる道を選んだ。

  一条蔵人私宅に御陣を居ゑさせられ、
  武田四郎勝頼一門・親類・家老の者尋ね捜して、
  悉(ことごと)く御成敗。


  生害の衆。
  一条右衛門大輔(信竜)・清野美作守・朝比奈摂津守・諏訪越中守・
  武田上総介・今福筑前守・小山田出羽守・正用軒(武田信廉)・
  山懸三郎兵衛子・隆宝(竜芳)、是れはおせうどう(御聖道様)事なり。
  此等皆、御成敗侯なり。

信忠は、軍勢の一部を上野へ派した。

 将は、弟織田信房、団忠正・森長可。 

  織田源三郎、団平八・森勝蔵、足軽衆に仰せつけられ、
  上野国表へ差し遣はされ侯ところ、

信長は、戦わずして、上野一国を手に入れた。

 小幡信真は、人質を差し出した。
 上野に、抵抗する者など、いない。

  小幡、人質進上申し、別条これなし。

信長は、わずか一月で四ヶ国を手に入れた。

 駿河・甲斐・信濃・上野。

 二月三日、信忠の先遣隊、出発。
 同十二日、信忠自身の出陣。
 そして、三月の今。
 わずか一月である。

  駿・甲・信・上野、四ケ国の諸侍、
  有縁をもつて、帰参の御礼、
  門前(信忠の)、市をなすなり。
                        (『信長公記』)

信長の勢威、恐るべし。

 最早、逆らう者など、誰もいない。

光秀は、まだ、この光景を知らない。

 信長の勢威が、これ程までだとは思っていなかった。

信長の勢威は、丹波では通用しなかった。

 考えても見よ。

 天正三年1575。
 五月、長篠の合戦で勝利。
 八月、越前の一揆を殲滅。
 九月、丹波攻略、始まる。
 
 光秀は、信長の勢威を背景に、丹波に入った。
 なるほど、最初は、調子が良かった。
 ところが、一転。

 天正四年1576。
 一月、波多野秀治が裏切った。
 光秀は、大敗を喫し、九死に一生を得た。

 天正五年1577。
 八月、松永久秀、謀叛。

 天正六年1578。
 十月、荒木村重、謀叛。

 正に、毛利・本願寺・上杉の勢力がピークに達していた時期。
 光秀が最も苦労した時期である。
 そして、ようやく。

 天正七年1579。
 丹波統一、成る。

 天正八年1580。
 丹波一国、拝領。

 長い戦いだった。
 光秀には、そのような経緯があった。

 それ以来、今日まで。
 光秀は、合戦から遠ざかっていた。
 長いブランクがあったわけである。

光秀は、甲斐攻めが長引くものと思っていた。

 それ故、そう簡単に片付くとは思ってもいなかった。
 そのこともあって、多く兵の数を率いて来たのである。

信長の勢威は、確実に成長していた。

 「戦わずして、勝つ」
 信長の望むところである。

「長篠効果」

 天正三年1575。
 長篠での、大勝利。
 信長の勢威は、強大なものになった。
 これが、「長篠効果」。

「本願寺効果」

 天正八年1580。
 本願寺の降伏。
 それは、より強大化した。
 これが、「本願寺効果」。 

信長は、自分の実力に気づいていない。

 そして、今。
 甲斐侵攻。
 武田崩壊。
 信長の勢威は、さらに、大きなものになっていた。
 しかし、信長は、まだ、それ程までだとは、思っていなかった。

「武田効果」

 それは、やがて。
 否、間もなく。
 武田の滅亡を経て。
 爆発的に、増大する。
 これを、「武田効果」と呼ぶ。

 信長は、これに気づき、・・・・・。
 光秀は、その恐ろしさを目にすることになる。

 

 ⇒ 次へつづく 第67話 10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 




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