本能寺の変1582 第195話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第195話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛
信長は、豊原から北ノ庄に移った。
同十四日。
信長は、豊原から北ノ庄に移った。
九月十四日、信長、豊原より北庄まで御馬を納れられ侯。
滝川左近・原田備中・惟住五郎左衛門両三人として、
北庄足羽山に御陣屋御普請申し付けられ、
御馬廻・御弓衆歴々前後を固め、結構さ、中々興を催すことに候。
賀・越両国の諸侍馳せ集まり、有縁を以て帰参の御礼、
門前市をなす事に侯。
秀吉が加賀の一揆を鎮圧した。
加賀。
再び、一揆勢が動き出した。
秀吉軍、出動。
程なく、鎮圧。
後、帰陣。
賀州奥郡の一揆ども、信長御帰陣の由承り及び侯か。
人数を出だし侯。
羽柴筑前、天の与ふる所の由候て懸け付け、一戦に及び、
究竟の者頸数二百五十余討ち捕り、是れより帰陣。
信長は、越前の国掟を定めた。
これが信長の政である①~⑩。
掟 条々 越前国
①課役について。
一、国中へ非分の課役申す懸くべからず。
但し、差し当たる子細あつて、申し付くべきにおいては、
我々に相尋ぬべし。
其れに随ひ申し出ずべき事。
②諸侍の扱いについて。
一、国に立て置き侯(所領を安堵した)諸侍を、
雅(我)意に扱ふべからず。
いかにも、悃(まねんごろ)にして然るべく侯。
さ候とて、帯(おび)紐(ひも)を解き侯様にはあるまじく侯。
要害(砦)、かれこれ機(気)遺ひ、簡要に侯。
領知方(知行宛行)、厳重に相渡すべき事。
③裁判について。
一、公事篇の儀、順路憲法たるべし(道理に叶い公平であること)。
努々(ゆめゆめ)、贔屓(ひいき)偏頗(へんぱ)を存ぜず、裁許すべし。
若し又、双方、存分休まざるにおゐては、
雑掌を以て、我々に相尋ね、落着すべく侯事。
④公家寺社領について。
一、京家領の儀、乱以前、当知行においては、還附すべし。
朱印次第たるべき事。
但し、理(正当性)これあり。
⑤関所の廃止。
一、分国、いづれも、諸関停止の上は、当国も同前たるべき事。
⑥武辺のこと。
一、大国を預け置くの条、
万端につきて機遣ひ、油断あつては、曲事に侯。
第一、武篇簡要に侯。
武具兵粮嗜み侯て、五年も十年も慥(たし)かに拘ふべき分別、
勿論に侯。
所詮、欲を去り(私欲を捨て)、執るべき物(税)を申し付け、
所(政)務侯様に覚悟なすべく候。
子供寵愛(男色)せしめて、手猿楽・遊興・見物など停止すべき事。
⑦鷹狩りのこと。
一、鷹をつかふべからず。
但し、足場(城塞を築くための地形)をも見るべきためには、
然るべく候。
さも候はずば、無用に侯。
子供の儀は子細あるべからず候事。
⑧恩賞のための所領。
一、領中の員数に寄るべく侯と雖も、
二、三ケ所も給人を付けず(直轄領として)、
是れは、忠節の輩(ともがら)、それぞれに随つて、
扶助すべき地に侯由、申し拘へおく(直轄)べく侯。
武篇に励み侯へども、
恩賞すべき所領これなしと、諸人見及び候はゞ、
げには勇も忠義も浅かるべきの条、其の分別、尤もに候。
給人をつけず侯間は、蔵納(直轄地)なすべき事。
⑨信長に対して。
一、事新しき子細に侯と雖も、
何事においても、信長申す次第に、覚悟肝要に侯。
さ侯とて、無理非法の儀を心にをもひ(思い)ながら、
巧言申し出ずべからず侯。
其の段も、何とぞ、かまひ(支障)これあらば、理りに及ぶべし。
聞届け、それに随ふべく侯。
信長にとっては、柴田勝家といえども赤子同然だった。
⑩そして、末尾にこの一文がある。
とにもかくにも、
我々を崇敬して、影後にても、あだにおもふべからず。
我々あるかたへは、足をもさゝざるやうに、心もち簡要に侯。
其の分に侯へば、侍の冥加ありて、長久たるべく侯。
分別専用に侯事。
天正三年九月 日
信長は、絶対専制君主である。
この気迫、迫力。
最早、逆らう者など、誰もいない。
正に、絶対専制君主の姿である。
【参照】4光秀の苦悩 4粛清の怖れ 小 14
信長は、絶対専制君主。『信長公記』
⇒ 次へつづく 第196話 16光秀の雌伏時代 4服部七兵衛
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