本能寺の変1582 重要 ◎第21話 光秀の人物像 出会い 藤孝 信長 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第21話
光秀の人物像 出会い 藤孝 信長
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*以下は、第21話から重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
◎義昭は、近隣諸国の大小名へ御内書を送った。
謙信ばかりでは、なかった。
当然、信長へも、家康へも 。
「御内書」
義昭は、支援を要請した。
◎信長との交渉は、すでに始まっていた。
同、永禄八年1565、十二月。
御内書に対する信長の返書である。
「重ねて」、とある。
御内書は、これ以前に、「複数回」、送られていた。
かなり、積極的である。
御入洛の儀に就いて、重ねて、御内書を成し下され候、
謹みて、拝閲致し候、
◎信長は、義昭への協力を約束した。
信長は、「複数回」、応諾の返事を伝えてあった。
「度々」、とある。
義昭の期待が膨らんでいく。
度々、御請け申し上げ候如く、
上意次第、不日なりとも御供奉の儀、無二その覚悟に候、
◎細川藤孝が、信長の窓口だった。
信長と藤孝の交流は、この年から始まった。
猶、大草大和守(公広)・和田伊賀守(惟政)、申し上げらるべきの旨、
御取り成し仰ぐ所に候、
恐々敬白、
十二月五日 信長(花押)
細川兵部太輔殿
【重史083】(「東京大学史料編纂所蔵」)
◎細川藤孝は、次第に、信長へのめり込んでいく。
◎その延長線上に、光秀と藤孝の出会いがあった。
◎このことが、光秀と信長の邂逅へと繋がる。
以下、順を追って説明する。
⇒ 次へつづく 第22話 5藤孝との出会い 2上洛不発
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本能寺の変
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