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本能寺の変1582 重要 ◎第5話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要 ◎第5話 

3信長の甲斐侵攻 1信忠、出陣 1/2 

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*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正 240126 
【参照】信長の甲斐侵攻 

◎信長は、甲斐を攻めた。

 少し前のことである。
 この年(天正十年)、二月。

  二月三日、信長公、諸口より出勢すべきの旨、仰せ出だされ、
  駿河口より家康公、
  関東口より北条氏政、
  飛騨口より金森五郎八大将として相働き、
  伊奈口より、信長公・三位中将信忠卿、二手に分つて御乱入を
  なすべき旨、仰せ出だされ侯なり。

◎先陣は、嫡男信忠。

 信忠、この時、二十五歳。
 先陣の総大将である。

  二月三日、三位中将信忠・森勝蔵・団平八、先陣として、
  尾州・濃州の御人数、木曾口・岩村口両手に至りて出勢なり。

◎信長の本陣は、その後を追う。

◎これについて、条々。

 信長は、十一ヶ条の条書を発した。

  二月九日、信長公、信濃国に至りて御動座なさるべきについて、
    条々     御書出

◎大和の筒井順慶、出陣すべし。

 但し、高野山への兵は残すこと。
 また、吉野の警固を油断せぬこと。

  一、信長出馬に付いては、
    大和の人数出張の儀、筒井召し連れ罷り立つべきの条、
    内々、其の用意然るべく侯。
    但し、高野、手寄の輩少し相残し、吉野、警固すべきの旨、
    申しつくべきの事。

◎丹後の細川藤孝、これは警固のため残し置く。

 但し、子の忠興は、は出陣すべし。
 与力の一色満信、同。

  一、永岡兵部大輔の儀、与一郎、同一色五郎、罷り立ち、
    父、彼国に警固すべき事。

◎信長は、藤孝の嫡男忠興に目を懸けていた。

 細川忠興は、永禄六年1563の生れ。
 この年、二十歳。
 藤孝の後継者。
 もう、一人前。
 立派な若武者である。

 天正五年1577、十五歳の時。
 忠興は、離反した松永久秀との戦いで、弟昌興とともに、手柄を上げ、
 信長から、自筆の感状を賜っている「細川家文書」。

 これこそ、信長の好むところ。
 以来、信長は、特に、目を懸けていた。

 これについては、後述する。 

◎信長は、光秀に参陣を命じた。

 光秀は、筒井・細川と同じく、後発軍である。 
 両氏は、ともに、光秀の与力。
 その指揮下にあった。

  一、惟任日向守、出陣の用意すべき事。
                           (『信長公記』)

◎光秀は、甲斐遠征が出来る年齢だった。

 おそらく、1000kmを超えるだろう。
 長期に亘る大遠征となる。
 気力、知力、体力。
 光秀には、それが十分に出来た。
 まだまだ、現役。
 引退するような年齢ではない、ということである。

◎光秀の年齢は、六十代前半以下。

 当時の人々の寿命を見れば、このあたりが上限になるのではないだろ
 うか。
 そう、考える。

 なお、これについては後述する。 

◎信忠は、破竹の勢いで進撃した。

 同、三月。
 飯島から、天竜川を越え、貝沼原へ進出(長野県上伊那郡飯島町・同伊那市
 富県貝沼)。

  三月朔日、三位中将信忠卿、飯島より御人数を出だされ、
  天龍川乗り越され、貝沼原に御人数立てさせられ、

 攻撃準備は、ととのった。
 この日は、同地に宿泊。

  中将信忠卿は、御ほろの衆十人ばかり召し列れ、
  仁科五郎楯籠り侯高遠の城、川よりこなた高山へ懸け上(のぼ)
  させられ、
  御敵城の振舞・様子御見下墨(みさげすみ)なされ、
  其の日は、かいぬま原に御陣取。

◎信忠は、高遠城を攻めた。

 戦いは、夜明けとともに始まった。

  三月二日、払暁に、御人数寄せられ、
  中将信忠卿は、尾続きを搦め手の口へ取りよらせられ、
  大手の口、森勝蔵・団平八・毛利河内・河尻与兵衛・松尾掃部大輔、
  此の口へ切つて出で、数刻相戦ひ、数多討取り侯間、残党逃げ入る
  なり。

◎信忠は、勇猛だった。

 自らも、塀際へ突撃して、一斉攻撃を命じた。
 敵味方、入り乱れての激戦となった。

  か様侯処(ところ)、
  中将信忠御自身、御道具を持たせられ、先を争つて塀際へつけられ、
  柵を引き破り、塀の上へあがらせられ、
  一旦に乗り入るべきの旨、御下知の間、

  我劣らじと、御小姓衆・御馬廻城内へ乗り入り、
  大手・搦手より、込み入り、込み立てられ、火花を散らし相戦ひ、
  各(おのおの)、疵(きず)を被り、討死、算を乱すに異らず。
                          (『信長公記』)



 ⇒ 次へつづく

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