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本能寺の変1582 第173話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第173話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 

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これが、「金ヶ崎の退き口」である。

 殿軍は、秀吉一人だけではなかった。

光秀は、金ヶ崎に残った。

 三将には、それぞれ、胸の内に、期するものがあった。

  【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前 小   170
    指揮官は、秀吉・光秀・池田勝正の三将。「武家雲箋」

光秀には、そうせねばならぬ理由があった。

 失敗すれば、討死。
 ようやく、掴みかけた幸運。
 今の地位・立場・境遇、等々。
 その全てを失う。

 だが、その反面。
 無事、成し遂げれば、・・・・・。
 信長の重用は、これまで以上に増すことになる。
 これ、すなわち、好機。
 おそらく、光秀は、そう、考えた。 

その根拠。

 しかし、それには、裏付けがあった。
 運を天に任すに、あらず。
 すなわち、確とした根拠。

 考えても見よ。
 永禄九年1566、九月。
 足利義昭は、若狭から越前敦賀に移った*1。

  三好(義継)・松永(久秀)、策有るの間、
  安座成り難く候の条(くだ)り、
  若州へ相越し、

  去る八日、越州敦賀に至り退座候、
  義景(朝倉)馳走に候、
                 (「足利義昭御内書」「歴代古案」)

 永禄十年1567、八月。
 信長が美濃を統一する*2。

  一、八月十五日、色々降参侯て、
    飛騨川のつゞきにて侯間、舟にて川内長島へ、
    龍興、退散。

  さて、美濃国一篇に仰せ付けられ、
  尾張国小真木山より、濃州稲葉山へ御越しなり。

  井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ、明くる年の事。
                          (『信長公記』)

 そして、同年十一月。
 義昭が一乗谷に入った。

  永禄十年十月(十一月の誤り)廿一日、敦賀を御出で有り、
  府中龍門寺へ入り給ひ、暫し、御休息ましまして、

  其の日の亥の刻(午後十時ころ)、一乗安養寺に着御なり、
                          (「朝倉始末記」)
 

 光秀は、この頃、越前に居住していた。
 とすれば、おそらく、この間だろう。
 光秀は、細川藤孝に接近した。

 *1【参照】5藤孝との出会い 2上洛不発  小   27 
    義昭は、信長から謙信へ大きく舵を切った。「歴代古案」
 *2【参照】5藤孝との出会い 3天下布武  小   28
    信長は、美濃を平定した。『信長公記』
 *3【参照】5藤孝との出会い 3天下布武  小   29 
    同じ頃、足利義昭は越前一乗谷にいた。「朝倉始末記」

光秀は、来襲の時を予測出来た。

 これらのことからも、よくわかる。
 光秀は、この辺りの地理に精通していた。
 したがって、来襲の時を予測出来た。
 朝倉は、今頃、・・・・・。 
 浅井は、いつ、・・・・・。
 これこそ、光秀、最大の強み。
 否、武器。
 他の誰もが、及ばぬところであった。

殿軍、撤退のタイミングについて。

 光秀は、信長の決断の早さに驚いた。
 「見事」
 いよいよ、のめり込んでいく。
 
 織田軍の一斉移動に関して、それに要する時間的なことについては、
 よくわからない。
 何れにしても、彼らが「安全圏」に入るまで。
 それまでの辛抱・忍耐。
 時間との闘いだった。 

戦国武将、明智光秀。

 光秀は、根っからの武人。
 才は有れども、文人にあらず。
 正に、白刃の上を渡るが如し。
 このような過酷な時代を生きた、「戦国武将」なのである。
 肝が据わっていた。

光秀は、信長の目を強く意識していた。

 信長は、光秀をよく観察してた。
 「文」、「武」。
 これ以後、武将としての役目が、吏僚としてのそれよりも、その比重を
 増していく。
 そして、やがて、後者の方は、村井貞勝に引き継がれる。
 「出来る」
 信長の、光秀に対する認識の変化がそうさせたのである。

 光秀は、そのことを、よく知っていた。



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