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本能寺の変1582 第172話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第172話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 

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越前金ヶ崎について。

 先ずは、その位置について。

 一、北は、海。
   敦賀湾、日本海。

 一、東は、山地。
   五里(20km)ほどの間、山々が連なり、それらを越えて越前平野
   に至る。
   そのほぼ中央部に、朝倉義景の一乗谷がある。
   北東方向へ、およそ十二里(48km)の距離。
   通路は、二つ。
   山中路(北国街道)と、海沿いの道。
   何れも、細くて狭い道だったと思う。

   信長は、手筒山・金ヶ崎を落城させた後、おそらく、これら二つの
   通路に物見・斥候を進出させただろう。
   彼らは、越前国中へ向かって落ちのびて行く敗残の朝倉勢を追い込
   むような形で、この通路を北上し、敵勢の進出状況等を見張ってい
   た、・・・・・。

  【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前 小   168   169
    信長は、越前敦賀へ攻め込んだ。『信長公記』
    信長は、手筒山で千余人を失った。「言継卿記」

浅井長政、離反の原因。

 次、信長と浅井長政について。

 一、南は、近江と隣接する。
   同じく、五里(20km)ほど、山中路(北国街道)がつづき、琵琶湖に
   至る。
   浅井長政の小谷城は、そこから、さらに、南東へ三里(12km)ほど
   先のところにあった。
   通路は、一つ。
   その道のみ。

   信長は、二十六日、疋壇城を攻略した(福井県敦賀市疋田)。
   越前・近江、国境の城である。
   すなわち、織田軍の一部は、敦賀から、南下して、
   近江との国境近くまで進出していた。

  【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前 小   169
    「国中御乱入なすべきのところ」『信長公記』

   浅井氏にとっては、これは一大事。
   大きな、刺激、否、脅威になっただろう。
   長政の心中は、如何に、・・・・・。

   果たして、信長は、これに対して、手を打っていたのだろうか。
   なるほど、配慮はしていた。
   しかし、それは、信長が思うこと。
   勝手な思い込みにすぎぬ。
   長政の心は、また、別にある。
   内心、複雑だった、・・・・・。

   結果、離反。
   となれば、行き着くところは、
   「信長の油断」
   浅井氏への対策が不十分だった。
   これが大きな原因となった。

織田軍の安全圏について。

 殿軍の撤退時期に関すること。

 一、西は、若狭。
   敦賀と美浜の間にある標高100mほどの関峠が国境である。
   そこまでの距離、およそ二里(8km)。
   敦賀平野を突っ切れば、そこは、隣国。
   きわめて、近い。

   すなわち、他国である。
   浅井氏といえども、そう易々と、若狭に、踏み込むことが出来な
   かった、・・・・・。
   朝倉氏も、これに同じ、・・・・・。
   そうだとすれば、そこが「安全圏」となる。 

   光秀ら三将は、少なくとも、織田本軍の最後尾が若狭に入るのを
   見届けるまでの間、押し寄せるだろうと思われる浅井・朝倉勢を、
   一手に、引き受けねばならなかった。

   緊急事態である。
   しかし、何しろ、大軍勢。
   短時間では、終わるまい。
   ならば、半日、・・・・。
   否、丸一日、・・・・・。
   それは、わからない。

   何れにしても、光秀ら三将は、無事、生き延びた。
   ということは、それ程、長い間ではなかったということだろう。
   また、浅井・朝倉勢来襲の有無、その兵数、合戦の有無等について
   も、確かなことは、よくわかっていない。 



 ⇒ 次へつづく 第172話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 


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