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本能寺の変1582 第168話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第168話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 

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元亀元年1570

 四月二十三日。
 京。
 永禄から元亀へ。
 年号が改められた。
 
  廿三日、庚申(かのえさる)、天晴、八専、
  今日、改元これ有り、
                          (「言継卿記」)

信長は、進路を東へ変えた。

 同日。
 若狭。
 信長は、若越国境へ迫った。
 佐柿国吉城に到着(福井県三方郡美浜町佐柿)。
 熊川から凡そ八里(32km)、余裕の行軍だった。
 
  廿三日佐柿、粟屋越中(勝久)が所に至りて御着陣。

 同二十四日。
 信長は、ここに二日ほど逗留した。
 朝倉・浅井の動勢を窺う。

  翌日、御逗留。
                          (『信長公記』)

 粟屋勝久は、若狭武田氏の家臣。
 国吉城主。
 先の武藤友益と同じく、四老の一人である。
 しかし、友益とはちがい、早くから信長に服属していたらしい。

信長は、越前敦賀へ攻め込んだ。

 同二十五日。
 信長は、突如、国境を越えた。
 越前侵攻。
 瞬く間に、手筒山城を陥落させた。
 
  廿五日、越前の内敦賀表へ御人数を出ださる。
 
  信長公、懸けまはし御覧じ、則ち手筒山へ御取り懸け候。
  彼の城、高山にて、東南峨々(がが)と聳(そび)えたり。
  然りと雖も、頻(しきり)に攻め入るべきの旨、御下知の間、
  既に、一命を軽んじ、粉骨の御忠節を励まれ、程なく攻め入り、
  頸(くび)数、千参百七十討捕り。
                          (『信長公記』)

 
 朝倉氏は、信長の来襲を事前に察知していた。
 「頸数千参百七十」
 戦死者の数をみれば、それがわかる。
 これに備えて、守りを固めていた。
 しかし、義景は出馬せず。

朝廷は、戦勝祈願の準備をすすめていた。

 同日。
 こちらは、京。
 信長は、朝廷の守護者。
 朝廷は、信長のために、戦勝祈願の準備をすすめていた。 

  廿五日、壬戌(みずのえいぬ)、天晴、
  二條大納言、呼ばるゝの間、罷り向かふ、
  信長祈願として、内侍所、明後日、御千度人数の事、
  予(言継)、申し調(ととの)ふべきの由有るの間、
  各(おのおの)に、罷り向かひ、これ申す、
  四辻大﹅﹅、同相公、勧修寺黄門、同辨、中山少将、
  新蔵人等に、これ申す、
  各、同心なり、
  又、罷り向かひ、これ申す、 
                          (「言継卿記」)
 

信長は、手筒山で千余人を失った。

 織田軍は、苦戦した。
 多数の戦死者が出たらしい。
 そのことについて、山科言継が書き残している。

  一昨日(二十五日)、越前国に於いて合戦これ有りと云々、
  信長衆、千余人討死と云々、
  慥(たしか)な注進なきの間、詳(つまび)らかならず、
                   (「言継卿記」四月二十七日条)

 
 『信長公記』には、織田軍が、朝倉勢に対し、一方的な勝利を収めたかの
 ような筆致で書かれている。
 作者太田牛一は、自軍の損害には触れず。
 信長に不利なことは、書かない。 

 しかし、「言継卿記」は、その逆である。
 「信長衆、千余人討死」、とのみ。
 朝倉勢について、記述はない。

 これらから、
 戦死者の数は、織田・朝倉、ともに、ほぼ同数。
 かなりの激戦だった、・・・・・。
 「詳らかならず」
 よく、わからない。

 


 ⇒ 次へつづく 第169話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 


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