本能寺の変1582 第167話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第167話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
信長、出陣。
同日。
信長は、早朝、京を発った。
一条から山中越えにて坂本へ。
この日は、和邇(滋賀県大津市和邇中浜)まで。
四月廿日、信長公京都より直ちに越前へ御進発。
坂本を打ち越し、其の日、和邇に御陣取り。
(『信長公記』)
信長の軍勢は、幕府軍だった。
信長は、三万余の軍勢を率いた。
出勢は、すでに、二・三日前から始まっていた。
幕臣・近隣の大小名はむろんのこと、公家衆も参陣していた。
信長の軍勢は、幕府軍であり、官軍でもあった。
触状の一件 → 義昭御所へ祗候 → 参内
これらが、一つに繋がった。
廿日、丁巳(ひのとみ)、天晴、八専、
早旦、弾正忠信長の出陣を見物、
一條東へ坂本に下せしめ、三万計りこれ有り、
両三日以前より、直ちに若州へ罷り越すと云々、
三好左京大夫、これを送らるゝ、
松永山城守は、罷り立つ、
摂州池田筑後守(勝正)、人数三千ばかりこれ有り、
公家、飛鳥井中将・日野等立たれおわんぬ、
今日、鰐(和邇)まで行かるゝと云々、
貴賤男女僧俗、見物しおわんぬ、
(「言継卿記」)
信長は、名目を若狭の武藤友益討伐とした。
表向きを、その様に偽った。
信長は、同年七月十日付で毛利元就へ書状を送っている。
その中に、次の記述がある。
一、若狭の国端に武藤と申す者、悪逆を企つるの間、
成敗を致すべきの旨、上意として仰せ出さるゝの間、
去る四月廿日出馬候、
武藤、種々相詫び候条、召し出し、要害已下破却せしめ、
御下知に任するの事、
(「毛利家文書」一部抜粋)
武藤友益は、若狭武田氏の家臣。
四老の一人である。
同国の西端、大飯郡佐分利郷に住す。
石山城を本拠とした(福井県大飯郡おおい町石山)。
熊川から真西へ、直線距離で凡そ30kmほどの地点。
信長は、義昭を利用した。
信長の魂胆が、これでよくわかる。
「上意として仰せ出さるゝ」、とある。
信長にとって、将軍は飾り物にすぎない。
「木偶(でく)」
義昭は、操り人形。
目的のために、利用すべき存在。
世間体を取り繕う隠れ蓑。
そう、認識していた。
光秀は、信長と同類だった。
光秀は、将軍義昭に、信長からの要求を知らしめた男。
「五ヶ条の条文」
その魂胆を、他の誰よりも、よく知っていた。
一、天下の儀、何様にも信長に任せ置かるのゝ上は、誰々に寄よらず、
上意を得るに及ばず、
分別次第に成敗をなすべきの事、
【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前 小 161
天下の儀、何様にも信長に任せ置かるのゝ上は。
信長は、琵琶湖の西岸を北上した。
同二十一日。
志賀郡から高島郡へ。
この日は、田中城泊(滋賀県高島市安曇川町田中)。
廿一日、高島の内、田中が城に御泊り。
同二十二日。
信長は、若狭に入った。
熊川に到着。
廿ニ日若州熊河、松宮玄蕃所に御陣宿。
(『信長公記』)
信長の真の狙いは、越前にあった。
同じ頃。
奈良。
多聞院英俊は、そのことを知っていた。
一、去る廿日、信長、わに・かたゝ(和邇・堅田)に陣取られおわんぬ、
越前へ手遣いひ、江州北方桙楯に及ぶと云々、
如何に成り行くべき哉、
(「多聞院日記」四月二十二日条)
信長の偽装は、見破られていた。
世間の目は、誤魔化されず。
となれば、・・・・・。
当然、
小谷の浅井長政も、これに気づく。
越前、朝倉義景、また然り。
信長の狙いは、露見していた。
⇒ 次へつづく 第168話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前
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