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本能寺の変1582 第170話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第170話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 

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浅井長政が裏切った。

 同二十八日。
 そうしている間に、一大事が勃発した。
 「浅井備前守、別心」
 信長は、陣中で、その報せをうけた。
 暫し、沈黙。
 ・・・・・。
 そのための、縁組ではなかったのか。
 ・・・・・。
 義弟が敵に変わった、瞬間。
 事態一転。
 浅井氏の向背が明らかになった。

  江北浅井備前、手の反覆(裏切り)の由、追々、其の注進候。
 
  然れども、
  浅井は歴然御縁者たるの上、
  剰(あまつさ)へ、江北一円に仰せ付けらるゝの間、
  不足あるべからざるの条、
  虚説たるべし、
  と、おぼしめし侯ところ、

  方々より、事実の注進候。
                          (『信長公記』)

光秀の不安が的中した。

 戦国の世である。
 別に、珍しくも、何ともない。
 あちらにも、こちらにも、よくある話。
 光秀は、美濃の争乱と下剋上を生き抜いてきた男。
 用心深く、猜疑心が強い。
 一抹の不安。
 否、それ以上のものだっただろう。
 結果、良くも悪くも、想定通り。
 ただ、そうなっただけの事。
 「是非に及ばず」
 である。

信長は、窮地に陥った。

 信長の頭脳が目まぐるしく回転した。
 
 浅井が背いた。
 朝倉が攻め寄せる。
 否、そればかりではなかろう。
 近江、六角。
 そして、一揆。
 ・・・・・。

 となれば、
 通路は、遮断され、
 岐阜へは、帰れぬ。

「撤退」

 信長は、早かった。
 即決、即断。
 次々に、下知が飛ぶ。 
 
  是非に及ばずの由にて、金ヶ崎の城には木下藤吉郎残しをかせられ、
                          (『信長公記』)
 

 武将たちは、ただ、ひたすらに。
 黙々と、その命に従う。
 「金ヶ崎の退き口」
 始まりである。

信長は、金ヶ崎城に殿軍を配置した。

 これが、また、難しい。
 織田本軍を、無事に脱出させねばならぬ。
 その為の時間稼ぎ。
 その間、敵の攻撃を一手に引き受けることになる。
 正に、「捨て石」。
 最悪、全滅。
 過酷な任務だった。

指揮官は、秀吉・光秀・池田勝正の三将。

 この時、義昭の奉公衆一色藤長が、丹羽長秀と連絡を取り合いながら、
 海上から越前に入ろうとしていた。
 以下は、藤長が五月四日付で波田野秀信という人物へ送った書状である。
 この中に、三人の名がある。
 
  二十九日、弥(いよいよ)出船候筈に候のところ、
  前日(二十八日)、信長打ち入れられ候由(退却したということなので)、
  丹五郎左え(丹羽五郎左衛門慰長秀と)、若州において談合候ところ、
 
  金崎城に、
  木藤(木下藤吉郎秀吉)、
  明十(明智十兵衛慰光秀)、
  池筑(池田筑後守勝正)、
  其の外、残し置かれ、

  北郡の儀、相卜され(色々と考えて)、
  重ねて(再び)越国乱入有るべき由候、
 
  然らば、此方の儀、帰陣然るべきの由候間、是非無く其の分に候、
                          (「武家雲箋」)

池田勝正は、三千の兵を率いていた。

 勝正の軍勢は、殿軍の中で、最大兵力だったと思われる。
 おそらく、その半数、否、それ以上だったのではなかろうか。 

  摂州池田筑後守、人数三千ばかりこれ有り、
                          (「言継卿記」)

   【参照】16光秀の雌伏時代 3信長と越前 小   167   
     信長の軍勢は、幕府軍だった。「言継卿記」




 ⇒ 次へつづく 第171話 16光秀の雌伏時代 3信長と越前 


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