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本能寺の変1582 第27話 5藤孝との出会い 2上洛不発 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第27話 5藤孝との出会い 2上洛不発 

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重要 ◎目次

◎信長は、河野島で斎藤龍興に敗れた。

 信長は、思い知らされた。

  出張の翌日より、風雨濃水に付きて、
  自他、行(てだて)に及ばず候ひき、
  漸(ようや)く、水引き候間、
  取り懸け相果つべきの由、儀定候のところ、
  去八日未明に、織上敗軍仕り候、

◎信長の決断は、正しかった。

 恐るべし。
 斎藤龍興。
 手強い相手だった。

  川へ逃げ入り、水に没溺し候者ども数知らず候、
  残党、川際に於いて少々討ちとり候、
  兵具已下、捨て候為体(ていたらく)、前代未聞に候、

◎隙を見せれば、命を取られる。

 斎藤氏の戦力、未だ健在。
 「上洛しておれば」
 背後を衝かれる可能性があった。
 世は、戦国時代。
 生き残るためには、手段を選ばず。
 何が起きても、おかしくない時代だった。 

  一戦を遂げず退散候の間、数多(あまた)討ち取らざること、
  無念少なからず候、

  然りと雖も、此方存分に任すの条、御心易かるべく候、
  織田在陣中、注進申すべく候へども、程なく落居候間、
  その儀なく候、
                          (「中島文書」)

◎信長は、再認識させられた。

 斎藤氏を滅ぼさずして、上洛などありえぬことを。
 「稲葉山」
 信長は、これ以後、美濃への調略を徹底する。

義昭は、若狭から越前敦賀へ移った。

 同年(永禄九年)、九月。
 義昭は、立ち直った。
 「越州敦賀に至り退座候」
 再び、越後に目を向けた。
 頼みの綱は、やはり、上杉。

朝倉義景がこれを支援した。

 敦賀の金ヶ崎城に入った。
 「義景馳走に候」
 一年ほど、ここに滞在。
 謙信の出陣を期待した。

義景は、信長の一つ年上。

 朝倉孝景の嫡男。
 天文2年(1533)の生まれ。
 信長と同世代の人物である。
 幕府の有力大名の一人。
 一乗谷を本拠とした。
 やがて、信長の宿敵となる。

義昭は、信長から謙信へ大きく舵を切った。

 以下は、謙信へ送った御内書である。
 「是非とも参陣、偏に頼み入り候」
 他に、頼りとする者はいない。 
 義昭は、必死だった。

  条数を以って言上の旨、懇志の至り、喜び入り候、
  京表の儀、織田尾張守出勢、相違ふ故、
  江州矢島の儀、
  弥(いよいよ)、三好(義継)・松永(久秀)、策有るの間、

  安座成り難く候の条(くだ)り、
  若州へ相越し、

  去る八日、越州敦賀に至り退座候、
  義景(朝倉)馳走に候、

義昭は、上杉と北条の和睦を推し進めた。

 これが、その見返り条件である。

  仍って、東国の儀、大覚寺門跡御下向、
  北条(氏康)と和与の段、申し調(ととの)ふべく候条り、
  是非とも参陣、偏に頼み入り候、

となれば、当然、上杉派の発言力が増大する。

 大覚寺義俊が越後へ向かった。

  一書の趣、重ねて使者を差し下すべく候、
  毎事、身上任せ置き候、
  大方、東蔵坊に申し含め候、
  猶、大覚寺門跡演説有るべく候なり、

    九月十三日        義昭御印
      上杉弾正少弼殿
                  (「足利義昭御内書」「歴代古案」)

細川藤孝は、肩身の狭い状況に追い込まれた。

 藤孝は、信長派。
 長い冬の時代に突入した。



  ⇒ 次へつづく  第28話 5藤孝との出会い 3天下布武 


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