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本能寺の変1582 第26話 5藤孝との出会い 2上洛不発 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第26話 5藤孝との出会い 2上洛不発 

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信長は、嘲笑の的となった。

 斎藤氏にとっては、痛快この上なきこと。

    織上、天下の嘲弄、過ぐべからず候、

    かくの如きの間、
    竜興、 公儀に対し奉り、疎意あらざる段も、
    詮無き成り行きに候事、

信長は、再び、美濃を攻めた。

 同二十九日(永禄九年1566八月)。
 和睦など、出来ようはずはない。
 突如、越境。
 美濃に、攻め入った。 

  一、去月廿九日、織上、当国境目へ出張候、
    その時分、以っての外、水迫り候て、河表(おもて)打ち渡り、
    河野島へ執り入り候、

    即時に、竜興、懸かり向かひ候、

    これにより、織上引き退き、川縁に居陣候、
    国の者ども、堺川を限り、詰め陣を取り続け、相守り候、
                          (「中島文書」)

これで、和睦は消滅した。

 生きるか、死ぬか。
 共存など、あり得ぬ話だった。

義昭は、失望した。

 最早、信長を信用せず。

細川藤孝は、面目を失った。

 人間不信。
 自信喪失。
 これ以後、暫くの間。
 沈黙がつづく。

義昭は、矢島から若狭へ向かった。

 同日夜。
 義昭は、矢島を発った。
 船で、琵琶湖を渡ったらしい。
 従う家臣は、わずか四、五人。
 この中に、細川藤孝の姿もあった。
 一路、若狭へ。
 武田義統を頼った。

山科言継の証言である。

 「雑説」、「俄か」。
 都に、噂が流れた。

  閏八月小
  一日、己丑、雨降る、十方暮、
  江州矢島の武家、左馬頭義秋、
  一昨夜、四・五人にて、若州へ御座を移さるゝと云々、

  雑説これ有り、
  俄(にわ)かの儀と云々、
                (「言継卿記」永禄九年閏八月一日条)

山科言継は、信長のことをよく知っていた。

 言継は、京の公家。
 「言継卿記」を著した。
 永正四年1507の生まれ。
 天正七年1579、没。
 この時(永禄九年)、すでに60歳。
 当時としては、老人であった。

 織田家とは、父信秀の代から親交があった。
 初期の信長に関する記録が多く、処々に、光秀も登場する。
 この頃を知る上で、重要な史料である。
 以後も、多々、取り上げる。
 参考にされたい。

若狭は、内乱状態にあった。

 若狭は、武田義統が守護の国。
 だが、義統は、すでに実権を失っていた。
 父子反目、国人割拠。
 義昭を庇護する余裕などなかった。

 以下は、奈良、多聞院英俊の記録。
 正に、「地獄耳」。
 貴重な史料である。

  閏八月
  三日、大雨、昼夜降り止まざりおわんぬ、月待ち、曇りて拝し奉らず、
  一、去る二十九日夜、
    上意様は、矢島を御退座、若州に御動座しおわんぬ。

    三人衆、六角方と申し合わせ謀叛の故と云々、
    浅猿(あさまし)〃〃、
 

    若狭も、武田殿父子、取り合いに及び、乱逆と云々、
    いかが成り行くべき哉、
                         (「多聞院日記」)    



⇒ 次へつづく  第27話 5藤孝との出会い 2上洛不発 


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