本能寺の変1582 第25話 5藤孝との出会い 2上洛不発 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第25話 5藤孝との出会い 2上洛不発
◎信長は、上洛を断念した。
◎「織上違変せしめ候」
同二十二日。
約束の日である。
なれど、信長は、動かず。
「織上違変せしめ候」
変心した。
一、織田、江州を罷り透(通)るべく、路次番等も相調ふの間、
参陣差し急ぎ候様にと、
細兵(細川藤孝)、重ねて尾(尾張)へ下向候て催促のところ、
この期に至り、織上(織田上総介)違変せしめ候、
◎信長は、斎藤竜興を信用していない。
激変する時代だった。
先のことなど、誰にもわからない。
生きるとは、すなわち、「罠」に嵌まらぬこと。
◎信長は、用心深く、疑い深い。
斯くなることは、想定の内。
「美濃」、斎藤龍興。
原因の全ては、そこにあった。
油断ならぬ人物、なのである。
義昭は、甘かった。
現実を直視できず。
期待だけが先走った。
結局は、時期尚早。
無理を、夢見ただけのこと。
「元の木阿弥」
これまでの苦労は、全て、水泡に帰した。
幕府の権威は、疾(と)うの昔に失せていた。
これが、戦国時代後半の真の姿=現実。
幕府の権威など、疾(と)うの昔に失せていた。
戦国大名にとって、
「利用すれども、頼るべからず」、なのである。
信長は、これを、見事に実践した。
そして、本能寺に死す(49歳)。
義昭は、終生、それに固執した。
後年、秀吉の御伽衆となり、備後鞆(とも)にて病没(61歳)。
これが、二人の生き方だった。
義昭は、大きなショックをうけた。
和睦を進めている最中に。
「案々、図り候条」
全く、思いもかけぬことであった。
「不時、新たに候」
義昭は、約束を反故にされた。
「御無興」
「言語道断」
「御手を撃たるゝ」
その衝撃は、計り知れない。
此方(斎藤義龍)には、兼ねて、案々図り候条(くだり)、
さらに、不事(時)新たに候、
公儀、御無興、言語道断、御手を撃たるゝの由に候、
賢察、過ぐ候、
斎藤龍興は、三好三人衆と結託していた。
侮るなかれ。
三好の調略。
「幾重にも存ずるの由」
近江の六角承禎、のみならず。
美濃の斎藤龍興、をも取り込んでいた。
去春已来、三好かたより、種々懇望仕り候、
そのほか、御調略の筋、幾重にも存ずるの由候ひき、
(「中島文書」)
細川藤孝は、判断を誤った。
結果としては、そうなる。
「大手柄」は、一瞬にして、「大失態」に転じた。
主君の命とはいえ、・・・・・。
責は、己に有り。
藤孝の受けた衝撃もまた、相当、強烈なものであった。
期待が大きければ大きいほど、その反動も大きい。
藤孝は、窮地に追い込まれた。
否、落ち込んだ。
⇒ 次へつづく 第26話 5藤孝との出会い 2上洛不発
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