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本能寺の変1582 第24話 5藤孝との出会い 2上洛不発 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第24話 5藤孝との出会い 2上洛不発 

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ここで、状況が一変した。

 同年(永禄九年)、八月。
 正に、有為転変は世の習い。
 時代は、激動していた。

三好三人衆が坂本に進出した。

 矢島御所を狙った。
 義昭は、先手を打った。
 辛うじて、これを撃退。

  四日、壬戌(みずのえいぬ)、天晴、村雨晴陰、
  去る夜、江州矢島、引手(出勢)これあり、
  夜討ちに、三好方、坂本まで三千計り罷り向ふと云々、
  計略に依り、具足以下、済々(多くの者が)これを捨て、
  卅人計り討たるゝと云々、

                          (「言継卿記」)

義昭は、六角承禎の離反を知った。

 六角氏は、三人衆と通じていた。
 矢島は、手薄。
 「急がねばならぬ」
 義昭は、我が身の危機を察知した。

武田信玄がこれらを見ていた。

 以下の書状(「中島文書」)は、斎藤龍興の重臣四人が連署の上、
 武田信玄の重臣と思われる人物へ送ったものである。
 当時の状況がよくわかる。

斎藤氏と武田氏は、良好な関係にあった。

 書き出し部分である。

  去々月(七月)、此方(斎藤氏)使僧帰路の節、
  尊書幷(ならびに)貴国(武田)家老両人より芳問、
  何れも以って拝披致し候、
  条々、御懇(ねんご)ろの趣、本望の至りに候、

  それ以来、則ち、太守(武田信玄)へ、
  龍興申し展(の)べらるゝべく候と雖も、
  遠山かたへ始末迎送せられ、彼方誓紙已下相固め、
  御左右(知らせ)の旨たるべく候条、
  内々、待ち入り存じ候、

  但し、その先に及ばず、申さるべく候歟、
  是れまた、御指南次第に候、
  両所へ愚報、恐れながら御伝達預かるべく候、

◎義昭は、美濃と尾張の和睦を進めた。

 すべては、上洛のため。
 双方が、望んだからではない。

  一、濃・尾間のこと、先書に申し入る如く候、

    公方様御入洛につきて、織田上総(信長)、参陣御請け申すの条、
    尾州に対し此方矢留の儀、同心せしむれば忠節たるべきの由、
    仰せ出だされ候、

◎斎藤氏は、信長を信用していない。

 親の代から、敵同士。
 他に、言葉はない。

    (信長の)参陣一向不実に存じ候と雖も、

◎信長もまた、斎藤氏を信用していない。

◎「相互不信」

◎これが、この時代の風潮だった。

 一手違えれば、そこは地獄。
 「消滅」
 これが、戦国時代。

斎藤氏は、和睦することに決めた。

 義昭の顔を立てた。
 不承不承の体である。

    肯(がえん)ぜずに(あえて)、申すは、
    濃州として、相妨げ、御入洛の条、已(すで)に越度に非ずの通りに
    申し成すべく、巧(わざ)と分別せしめ候、
    
    若し又、治定に於いては、公儀御為、然るべしと存じ候、
    旁(かたがた)以って悉(ことごと)く御下知に任すの由、

細川藤孝は、そのために奔走していた。

 美濃・尾張間の調整。
 苦労の末、ようやく、ここまで漕ぎ着けた。

    細川兵部大輔(藤孝)殿に、返すがえし申し候間の事、
                          (「中島文書」)

 にもかかわらず・・・・・。



  ⇒ 次へつづく  第25話 5藤孝との出会い 2上洛不発 

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