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本能寺の変1582 第23話 5藤孝との出会い 2上洛不発 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第23話 5藤孝との出会い 2上洛不発 

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重要 ◎目次 

◎細川藤孝は、信長から言質を得た。

 同年、七月。
 急ぎ、義昭へ。

義昭の家中は、沸き立った。

 上洛の日が決まった。
 「来月二十二日」 
 信長、これに供奉。
 「織田尾張守参陣致し、御動座御供申すべき由に候」

義昭は、これを各所へ知らせようとした。

 「則ち、御内書成さるゝの通り」
 義昭の心は、すでに京へ。
 「幕府再興」
 今、一歩。
 「成る」
 そう、思っただろう。 

◎上洛間近、誰もがそう思った。 

 大覚寺義俊は、そのことを大和の十市氏へ伝えようとした。

  一、今度、将軍御入洛あるべきの由につき、
    高田為成より、遮りて(=わざわざ)、
    十兵(十市兵部少輔)の儀、大覚寺殿をして申し入られ、
    (和睦が)相調ひ、

義昭の御内書である。

 義昭の気持ちは、高揚していた、

    則ち、御内書成せらるゝの通り、

◎信長は、確かに、約束した。

◎だが、信長は、用心深い。

 しかし、「一寸先は闇」。
 何が起きても、おかしくない時代だった。
 信長は、用心深いのである。

    状に、曰く、

      御出張の儀に就きて、御内書成され候、
      来月二十二日、織田尾張守参陣致し、
      御動座、御供申すべき由に候、

家康も、参陣する。

 「三州(三河)」、とある。

      其れにつき、三州・濃州・勢州四ヶ国出勢必定に候、

      此の砌(みぎり)、忠節抽んでらるべくば、神妙たるべき由
      申し入るべき旨に候、

      猶、(高田)為成演説あるべく候間、再筆能わず候なり、
      穴賢(かしこ)々々、

        七月十七日    御判在之
       十市兵部少輔殿

多聞院英俊がこれを書き写した。

 多方面に、情報網を張り巡らしていた。

        以上、大覚寺殿小文にこれあり、
        写すなり、
       
 別帋(かみ=紙)にも日の下にも御判ばかりこれあり、
        名はこれなし、

◎しかし、糠喜びに過ぎなかった。

 そして、次の一文がつづく。

       有る如しと雖(いえど)も、此の御内書は、到来せず、
       大覚寺殿、一圓(円)、虚説なり、
              (「多聞院日記」永禄九年八月二十四日条)



  ⇒ 次へつづく  第24話 5藤孝との出会い 2上洛不発 

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