本能寺の変1582 第29話 5藤孝との出会い 3天下布武 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第29話 5藤孝との出会い 3天下布武
◎「天下布武」
同、永禄十年1567、十一月。
この頃からである。
信長は、「天下布武」の朱印を使い始めた。
◎これが、信長の夢。
すなわち、志向。
【参照】4光秀の苦悩 2志向の相違 小 8 ◎
第8話
◎世界は、大航海時代であった。
◎信長の目は、海外を見ていた。
◎信長の「さらなる夢」。 「イエズス会日本年報」
◎信長の拡大政策は、止まず。 『日本史』
◎これが信長の志向。
◎光秀は、信長の「さらなる夢」を知っていた。
◎信長は、目的意識の強い男。
すなわち、己の進むべき道。
この一事に、人生の全てを懸けた。
人間五十年、
下天の内をく(比)らぶれば、
夢幻の如く也、
一度生を得て、
滅せぬ者の有るべきか、
(『信長公記』)
◎信長は、己の決意をこの朱印に込めた。
以下は、坂井利貞への知行宛行状。
これが、その初見とされる。
扶助として、旦嶋の内弐拾貫文申し付くるの上、
全く知行、相違有るべからざるの状件の如し、
永禄十
十一月日 信長(朱印)
坂井文助殿
(「坂井遺芳」「信長文書の研究」)
◎光秀にも、夢があった。
これ、すなわち、光秀の志向するところ。
光秀が信長に出会った時期については、よくわからない。
おそらく、永禄十年1567~同十一年1568頃、と思う。
これについては、後述する。
【参照】4光秀の苦悩 2志向の相違 小 8 ◎
第8話
◎国々は、猶、長閑(のどか)なる時。
◎これが光秀の志向。
◎光秀は、分岐点の上にいた。
◎ならば、明智の取るべき道は、・・・・・。
◎明智の再興。
当時、明智氏は、没落していた。
これについては、後述する。
◎光秀もまた、目的意識の強い男。
光秀は、信長に注目していた。
「この男こそ」
そのような目で見ていたものと思う。
光秀は、信長の姿勢に共感。
同調した。
すなわち、志向の一致。
これに、乗ずる。
否、我が身を投ずる。
◎光秀は、典型的な戦国武将。
光秀は、目的意識の強い男。
典型的な戦国武将。
そのためには、手段を選ばない。
信長は、正親町天皇より綸旨を与えられた。
信長は、名実ともに、有力大名として認知された。
地方区から、一躍、全国区へと名乗りを上げたわけである。
綸旨とは、天皇の命をうけて、蔵人が出す、奉書形式の文書。
天皇の綸旨案は、次の通りである(「経元卿御教書案」)。
信長を大いに褒め上げて。
さらに励め、と激励している。
今度、国々本意に属するの由、
尤も武勇の長上、天道の感応、古今無双の名将、
弥(いよいよ)、勝に乗ぜらるべきの条、勿論たり、
そして、天皇領の回復を求めた。
就中(なかんづく)、両国御料所且つは御目録を出さるゝの条、
厳重に申し付けらるれば、神妙たるべきの旨、
綸命此の如し、
これを悉(つく)せ、以って状す、
永禄十年十一月九日 右中弁 (花押)
晴豊(勧修寺)
織田尾張守殿
(「信長文書の研究」)
同じ頃、足利義昭は越前一乗谷にいた。
義昭は、和田→矢島→若狭→敦賀、と流浪した。
そして、「漸く」、朝倉氏の本拠地、一乗谷に入った。
斯くして、国中、騒動も漸(ようやく)く静ける程に、
義昭公、一乗の谷へ入御成さるべきとて、
永禄十年十月(十一月の誤り)廿一日、敦賀を御出で有り、
府中龍門寺へ入り給ひ、暫し、御休息ましまして、
其の日の亥の刻(午後十時ころ)、一乗安養寺に着御なり、
(「朝倉始末記」)
⇒ 次へつづく 第30話 6信長との出会い 1使者光秀
NEW!!
目次 が更新されました。
これで、全体像がよくわかる!!
毎日更新!!
原因・動機の究明は、この一歩から!!
NEW!!
重要 ◎目次 が更新されました。
本能寺の変
原因・動機は、この中にあり!!
ご注目下さい!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?