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『証言』



『証言』


腐敗した魚の臭いがすると思ったら、自分の足の臭いだった。どうやらそれは、踵でもなく土踏まずでもなく、それぞれの爪から発している臭いである。



思わず天井を見上げた。節電のために薄暗い男子更衣室には、私の他には手術終わりの外科医の先生たちが数名いて、「今回の手術は夜通しだった」だの「ドクターヘリで臓器が届くのを待った」だのと喋っていたが、「あの看護師の態度、なんだよあれ。頭にくるよなー」「全然、仕事ができない看護師いたろ。あの子、もう外せ」などと看護師への不平不満を一頻り喋ると、今度は、「新車を買った」「マンションを購入した」「海外旅行にはもう行き飽きた」「あの美人な新人看護師を抱いた」とか言う愚劣な話が繰り広げられた。挙句、「この前、友達とイースター島へ旅行に行って、モアイ像の前で麻雀やったりして遊んだんだよねー、あひゃはははっ」などと愚にもつかぬくだらない駄弁を弄している。




無論、外科医の先生なのだから高学歴であり、凡人には理解できぬほど賢くて高尚なのかと思いきや、私のような無学の便所コオロギ以下の人間が同じ空間にいる職場の更衣室でそのような発言をするあたり、若干自惚れているのか、調子こいているのか、ストレスフルなのか、はたまたサイコパス気味なのかもしれない。とにかく、先生たちも所詮は私たちと同じ血液が流れている人間動物なのだと思った。



丸めた左右の靴下をダーティカートに投げ入れ、汗と脂まみれの顔を洗面台のぬるま湯で洗った。
鏡に映った私の顔は、真夜中に悪夢にうなされて目を覚まし、枕元にあるスマホですぐに自撮りしてみました(加工なしで)みたいな醜い顔をしていた。
その後ろには汗で濡れた帽子やスクラブを脱いでいる先生たちの裸体が見える。先生たちは、毎回、先生たちの分だけ休憩室に用意されている出前のスープカレーを早く食べたそうにしながら、帽子でつぶれた髪の毛を直したり、体を拭くなどしていた。




私は手術室があるフロアに戻らなければならない。
仕事の続きをしなければならなかった。私の仕事は複数の手術室を有する手術部のフロアの中央付近にある材料保管室というコンビニのバックヤードをだいぶ広くしたような部屋に常駐し、そこで約千種類の医療物品の管理することである。また、外部の医療メーカーなどの業者から納品される医療物品を受領したり、発注や問い合わせの電話をかけていた。


材料保管室にいると、ひっきりなしに電話がかかってくる。それの大半が看護師からの連絡だった。
「あ、成田さん。D室の滅菌ガウンがなくなったので補充してくれませんか?次のオペが入ってるので」
そう言われて、私は、ハンドル式の移動棚から滅菌ガウンを箱ごと取り出すと、それをカートに乗せて部屋に入った。部屋には電話をくれた堀川さんという二年目の看護師の女性がおり、ひとりで次の手術のための準備をしていた。まだ学生のような雰囲気で、顔の小さな可愛らしい女性である。私が部屋の隅にある棚に滅菌ガウンを補充しているとき、
「助かります、成田さん!そういや、成田さんて色白ですよね。前から思ってました。白いなあって」
「家族の中で自分が一番白いんです。妹よりも」
「あはははっ。わたし、色白の人が好きです」
手を動かしながら、そう言う堀川さんの顔が真っ赤になっていた。私はどきどきした。もしや、これは私へのアピールなのかな。ついに私にモテ期が到来したのかな。もう、まいったな、どうしよう。これからの明るい未来がまぶしすぎて直視できない。
などと勘違い野郎になってのぼせあがっていると、部屋入口の重厚な鉄の自動ドアが静かに開き、三十後半くらいの看護師の女性が無表情で入ってきた。
そして、手術台の前にいる堀川さんを一瞥して、「ちょっと、堀川さん!何やってんの!ベッドの組み立ての手順が違うじゃない!アンタ、なんなの」と言って、口を曲げながら苛々した顔になり、
「そういうことをしてると、看護師長さんに言いつけるからね!あとで、ベッドは堀川さんがやりましたって報告するから。わたし、インシデントになっても知らなーい。先生に怒られても知らなーい」
などと醜悪な顔をして冷然と言い放つと、私に、「成田さん。保温庫にワッサー補充してくれる?」
と言った。ワッサーとは蒸留水のことである。ドイツ語で水のことをさすらしい。所謂、医療従事者が使う業界用語である。私はこういう人情のない人間が心底大嫌いだった。「何が、ワッサーだ。偉そうに俺に命令するな。日本人なら水と言え、水と。水を補充してくださいだろ、ボケ。死ね。カス。水水水水」などど腹の中で悪態をついていると、無表情の看護師が「円座とってくるー」と言って消えた。


仕事ができない看護師は論外だが、他には顔がきれいな若い看護師の女性は周りから何かと憎まれやすい。だから、少しのミスでも他の人よりも咎められやすい気がする。嫉妬が見え隠れする嫌な職場だ。こういうのが女性の多い職場の難点であり、はっきり言って、贔屓やいじめもあるので残酷である。



また、看護師の中にはいくつか派閥があり、派閥によっては仲が悪かった。廊下ですれ違っても挨拶もしない。看護師同士で悪口を言い合い、先生は看護師の悪口を言い、看護師は先生の悪口を言う。
しかも、彼女たちはそれを私の前とかで笑いながら平然と言っているので、私はドン引きしているし、日々、そういう嫌な言葉が耳に入るたびに気が滅入り、段々と自分の精神が荒廃していくのが手に取るようにわかった。挙句、先生と看護師が不倫していたり、誰と誰が付き合った、別れた、妊娠した、子どもをおろしたとかいう噂話が飛び交うので、ここは一種のこの世の地獄的な職場だと思っている。


材料保管室に戻り、パソコンデスクで白目になりながらエナジードリンクを飲んでいると、大科さんという秋田犬のような顔をしたアニメ声の一年目の看護師の女性が飛び込んできた。大科さんは早口に、
「あ、あのぉ!粉の、粉のヤツ、どこですかぁ?」
「粉のヤツ?ああ、排液凝固剤のことですね」
「そう、それですぅ!いっぱい欲しいです!」
「ちょっと、待ってくださいね。はい、どうぞ」
「ありがとうございますぅ。あたし、物の名前とか場所とかじぇんじぇん覚えられなくてぇ…」
と言った大科さんは排液凝固剤を両腕に抱えて去っていったが、すぐに電話がかかってきて、追加の排液凝固剤をA室に持ってきて欲しいと言うので、私は急いで排液凝固剤をカートに乗せて部屋に行った。


A室に入ると、「沢田研二」が中音量で流れていた。
実際の手術室は医療ドラマのような緊迫した雰囲気の部屋はほとんどない。基本的になごやかであり、時折、笑いが起きており、何かしらの音楽が流れている。それは担当の先生の趣味によって異なるようだが、「いきものがかり」「ザ・ブルーハーツ」「エド・シーラン」「AC/DC」「デ・ラ・ソウル」と様々だった。そして、テレビの撮影中かと思うほど手術室内は人が多く、手術台に寝ている患者の周りには数人の外科医、麻酔科医、看護師、医療技師、医療メーカー、医学生などがいるのである。


大科さんは笑顔で、「ありがとうございますぅ」と言って排液凝固剤を受け取ると、すぐに先輩の看護師に渡した。人面墨書土器みたいな顔の五十すぎの女性である。彼女は、「ふざけてないでちゃんとしなさい」と言って大科さんを叱るが、大科さんははなから真面目にやっているのだ。しかし、アニメ声のせいか、些かふざけているように周りには聞こえるのである。大科さんは、「あい、すいませーん。とにかくぅ、気をつけますぅ」と言って、謝った。


私は笑いそうになったので、部屋を出て廊下を猛ダッシュし、ナースステーション前の乗換えホールへ行くと、焼身自殺未遂の男が運ばれてきた。今から緊急オペが始まるのである。ストレッチャーに乗せられた男はぐったりしていて、全身が丸焦げだった。皮膚はぐちゃぐちゃで、髪の毛は一本もない。
私はぎょっとして、男の特選備長炭のような体を見ていると、男の目が開いた。男のぬらぬらした二つの目玉がなぜだか私を見ている。恨めしい目で私を熟視している。いやいや、私は無関係だよ。通りすがりの便所コオロギ以下の童貞だよ。頼むから見ないでくれよ。こわいよー。とか思っていると、今度は、郊外にある渓谷に架かる橋の上から飛び降りたという女子高生が運ばれてきた。女子高生は落下中に大木の枝葉かなんかに引っかかったお陰で一命をとりとめたらしいが、重症だった。彼女の顔は腫れており、華奢な手足も血だらけである。彼女の苦しそうなうめき声が耳に入ってくるたびに、私は心がえぐられそうになり、烈しい嘔吐を催していると、ナースステーションの隣のカンファレンスルームから一年目の看護師の女性が泣きながら出てきた。
看護師長からお叱りを受けたらしい。彼女は人目を憚らず号泣していて、感情が抑えられないのか、地団駄を踏んでダラダラと鼻水を垂らし、嗚咽をもらしながらどこかへ去った。私は胸が痛くなった。
看護師が泣いているところを見たくはない。


その後、ナースステーションの前にあるコピー機を使おうとすると、コピー機の上に開いた状態の手帳が置いてあった。どうしても目に入るので、手帳を見ると、日付の下に丸文字で「ゆうやくんとディズニーデート」「記念日」「なおとえっちした」「お泊まり♡」などと生々しいことが書かれていた。
唖然とした私は、矢も楯もたまらなくなり、
「これ、誰のすか?なんか、不愉快なんすけど…」
と目の前にいるあかなめみたいな顔の看護師の女性に尋ねると、「ああ、それ、堀川さんのだよ。忘れていったみたいね」と言うので、私は即座に発狂しそうになり、「あの女め!やってくれんじゃねーかよ!こちとら、まんまと奴にだまされるところだったぜ、ははは。あぶねーあぶねー。けがらわしい。
奴は自分の美貌に酔ってやがるな。ちくしょうめ。というより、あれれれ、なんだか精神が錯乱しそうだ。頭が重い。目が見えない。息が苦しい。正気なんかじゃいられない。生きていてもろくなことがない。もう、はっきり言って、生きているのが嫌になってきたから死のうかな。前歯で舌を噛み切って」
とか言って、私は髪を振り乱しながら叫喚し、苔色の床を這いつくばりながら男子更衣室へ逃げた。


薄暗い男子更衣室では、パンツ一枚の麻酔科の先生がコンビニのスンドゥブを食べながらうろうろしており、その近くでは色黒の男性看護師が下半身を露出させてスマホを見ながらニタニタしていた。のみならず、その斜め後ろにいる看護助手のカカシみたいな男は床にうずくまり、ストレスからか陰気な顔で、「おえっ、おえっ」とえずきながら塩おにぎりを食べている。私は「みんな病んでいる」と思った。そして、私のロッカーの前へ行くと、なぜだかロッカーの扉が開いており、はっとして、なかを確認すると私の財布がない。そのとき、看護師長から、「最近、更衣室での盗難が多発しているから、くれぐれも気をつけてください」と言われたことを思い出した。こんちくしょう。金のない人から金を奪うのか。ひとでなし。ろくでなし。蛙の面に小便だ。地獄の沙汰も金次第などとわけのわからぬことを口走りながら、躁狂して手術部からすぐに脱出した。翌日、私は退職届を提出して、病院を去った。


私はその足で心療内科へ行き、抗鬱剤と精神安定剤を処方してもらった。そして、一日一回、夕食後にそれらを服用している状態がしばらく続いている。


          〜了〜



愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
大変感謝申し上げます。

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